そういえば日本でピエール・ギロー著『言葉遊び』を読んだのだった。
フランス語を解さない自分としては、読みながらもどかしい思いもあったのだけど、それなりに楽しめた。ロシアにもこういう本はないだろうか(しかも翻訳が)?
ある種の言葉遊びというのが、言語の壊乱と革新を企図するのだとしたら、それは確かにシュルレアリスムの実践と相通ずる。「優美な死体」(翻訳ではたしか「妙なる死体」だったか)の実験が、言葉遊びの一つとして挙げられているのも頷ける。ここで思うのは、言葉が先か理念が先か、ということで、シュルレアリスムが理念先行だとしたら、『不思議の国のアリス』などは言葉が先行しているのではないか、と当てずっぽうに思ったりもする。言葉と理念の先頭争いは実は重要で、何らかの理念の下に言葉遊びが行われていれば、その作品はその理念の名称で呼ばれることになるけれども、もし理念や哲学がなく、言葉遊びが言葉遊びのために行われていれば、それはノンセンスと呼ばれるのではないか。いやノンセンスというのもある種の哲学であるとすれば、言葉遊びのための言葉遊びは、それ自体で一つのジャンルを形成するのかもしれない。・・・『ノンセンス大全』を読んでいないので、あまりに勝手なことは書かない方が無難かな。
それにしても、エスリンは『不条理の演劇』(誰か第二版を新たに翻訳して出してよ)でベケットやイヨネスコを扱っているけれども、彼らの文学はどこから来たのか。不条理というのは、本来意味のない世界に意味を見出そうとしてしまう人間の絶望的状況だというのが一般的な理解だけれども、そういう哲学的なバックボーンがなければ「不条理演劇」は存在しなかったのか?カミュの演劇が不条理だというのが、仮にその哲学性(理念)から来ているとすれば、イヨネスコの演劇が不条理だというのは、恐らくその言語実験や芝居全体の非論理性から来ていると思う。そしてその言語実験や非論理性は、人間と世界の対立という実存主義における不条理を抜きにしても成立しうる。実際、イヨネスコの演劇と多くの点で共通する作品をハルムスが書いたのは、実存主義哲学が現れる前のことだ。もちろん、ハルムスの思想に実存主義的な危機を読み取り、彼を実存主義/不条理哲学の先駆者とみなすことは可能だろう。しかしながら、一方で彼の言語実験は明らかに実存主義とは無縁であり、もし不条理演劇が内容と形式(言葉)双方において「不条理」と称せられるのだとしたら、ハルムスの作品における「不条理」は、内容はともかく、形式の面から言えば実存主義を経ない不条理ということになる。
言葉遊びは、しばしば不条理(条理にそぐわない)なイメージを醸し出すけれども、それは往々にして何らかの哲学に裏付けられているものではない。もちろん実存主義とは無関係だ。ダダイズムの音声詩やロシア未来派のザーウミも言葉遊びの一つとして捉えることができるかもしれない。そしてザーウミを用いたある種の作品が、イヨネスコら不条理演劇と類似するとき、ぼくらは否応なくそこに実存主義哲学とは別のバックボーンを見出す。
改めてエスリンを読み直そうと思うのだけど、それは当分先になりそうだな。
フランス語を解さない自分としては、読みながらもどかしい思いもあったのだけど、それなりに楽しめた。ロシアにもこういう本はないだろうか(しかも翻訳が)?
ある種の言葉遊びというのが、言語の壊乱と革新を企図するのだとしたら、それは確かにシュルレアリスムの実践と相通ずる。「優美な死体」(翻訳ではたしか「妙なる死体」だったか)の実験が、言葉遊びの一つとして挙げられているのも頷ける。ここで思うのは、言葉が先か理念が先か、ということで、シュルレアリスムが理念先行だとしたら、『不思議の国のアリス』などは言葉が先行しているのではないか、と当てずっぽうに思ったりもする。言葉と理念の先頭争いは実は重要で、何らかの理念の下に言葉遊びが行われていれば、その作品はその理念の名称で呼ばれることになるけれども、もし理念や哲学がなく、言葉遊びが言葉遊びのために行われていれば、それはノンセンスと呼ばれるのではないか。いやノンセンスというのもある種の哲学であるとすれば、言葉遊びのための言葉遊びは、それ自体で一つのジャンルを形成するのかもしれない。・・・『ノンセンス大全』を読んでいないので、あまりに勝手なことは書かない方が無難かな。
それにしても、エスリンは『不条理の演劇』(誰か第二版を新たに翻訳して出してよ)でベケットやイヨネスコを扱っているけれども、彼らの文学はどこから来たのか。不条理というのは、本来意味のない世界に意味を見出そうとしてしまう人間の絶望的状況だというのが一般的な理解だけれども、そういう哲学的なバックボーンがなければ「不条理演劇」は存在しなかったのか?カミュの演劇が不条理だというのが、仮にその哲学性(理念)から来ているとすれば、イヨネスコの演劇が不条理だというのは、恐らくその言語実験や芝居全体の非論理性から来ていると思う。そしてその言語実験や非論理性は、人間と世界の対立という実存主義における不条理を抜きにしても成立しうる。実際、イヨネスコの演劇と多くの点で共通する作品をハルムスが書いたのは、実存主義哲学が現れる前のことだ。もちろん、ハルムスの思想に実存主義的な危機を読み取り、彼を実存主義/不条理哲学の先駆者とみなすことは可能だろう。しかしながら、一方で彼の言語実験は明らかに実存主義とは無縁であり、もし不条理演劇が内容と形式(言葉)双方において「不条理」と称せられるのだとしたら、ハルムスの作品における「不条理」は、内容はともかく、形式の面から言えば実存主義を経ない不条理ということになる。
言葉遊びは、しばしば不条理(条理にそぐわない)なイメージを醸し出すけれども、それは往々にして何らかの哲学に裏付けられているものではない。もちろん実存主義とは無関係だ。ダダイズムの音声詩やロシア未来派のザーウミも言葉遊びの一つとして捉えることができるかもしれない。そしてザーウミを用いたある種の作品が、イヨネスコら不条理演劇と類似するとき、ぼくらは否応なくそこに実存主義哲学とは別のバックボーンを見出す。
改めてエスリンを読み直そうと思うのだけど、それは当分先になりそうだな。