5月31日に全世界で視聴可能となった新海誠監督の最新作『言の葉の庭』、観ました。幾つかのトピックについて書きたいと思います。
・『耳をすませば』のモチーフ
今作には『耳をすませば』の残像があるように思います。主人公が靴作りの職人を目指す少年であることは、『耳』におけるバイオリン作りの職人を目指す少年というモチーフと響き合っていますし、また作中からは『耳』を仄めかす台詞を聞き取ることができました。家を出ていくタカオの兄が言う、「部屋が広くなっていいだろ」という台詞、それからクラスメイトの世間話の一部「ほんと月島らしいよな」という台詞。前者は、やはり家を出ていく汐(雫の姉)が言う台詞と共通しています。後者に関しては特に説明する必要もないでしょうが、雫の名字は月島でした。
・『耳をすませば』の変奏
『言の葉の庭』は、『耳をすませば』の変奏であると考えることができます。特筆すべき変更点は、少年目線になったこと、年齢差が生まれたこと。
・『耳をすませば』のテーマ
新海監督は『耳をすませば』が好きなことが知られていますが(http://www.anikore.jp/features/shinkai_1_3/)、彼はこの映画を初恋が実る奇跡的な物語として捉える一方で、それは現実にはほとんど例がないと冷静に考えてもいます(この点に関しては、『星を追う子ども』の舞台挨拶で触れられていたはずです)。したがって、『秒速5センチメートル』のような「初恋が実らない話」を作ろうとする意欲が生まれてくるわけです。新海監督が『耳をすませば』に本来備わっているのとは別の意味での「ありったけのリアリティ」(『耳』パンフレットにおける宮崎駿の言葉)を加えたのが『秒速』であるとみなせるのです。『言の葉の庭』においても、そのような意味での「リアリティ」は息づいているように感じられます。つまり、恋というものはお互い惹かれ合ってさえいれば必ず成就するようなものではないという現実=リアルが前提としてあるわけです。この前提を形成するのが本作における男女の年齢差でしょう。
・『耳をすませば』と風景
では、『耳』と『言の葉の庭』における共通テーマは何かと言えば、その最大のものは風景に対する視線だと思います。前者に関連して「イバラード目」と言われる世界に対する新鮮な視線は、一見すると凡俗で薄汚くさえ思える世界から、まるで子どもが初めて世界を目にしたときのような新鮮な驚きと喜びを取り戻してくれます。新海作品に通底している風景美は、まさにこのような「イバラード目」を視聴者にも授けてくれるかのようです。新海監督の視線のフィルターを通して見つめられた世界は、あまりにも美しい。『言の葉』においてその風景美は途方もないものになっています。輝いている世界を描くのみならず、そのような世界の輝きの独自の見せ方にも磨きがかかっており、「何を」「いかに」見ればよいのか、教えてくれているかのようです。
・リアリティを突破する
先程、男女の年齢差が一種のリアリティを形成していると書きましたが、もしもこの年齢差が乗り越えられない壁として機能し続けるのなら、リアリティはリアリティのままであることでしょう。ところが、この壁=リアリティは、突破される予感があります。その契機となったのは、タカオとユキノの心情激白でしょう。これまでの新海作品では、主にモノローグで物語が進行することが多く、登場人物の内に秘めた想いは必ずしも相手に届きませんでした。ところが今回、二人は感情を爆発させてダイアローグを行うのです。そしてそれによって、二人の距離は心理的にも身体的にも縮まることになります。ディスコミュニケーションからコミュニケーションへの転換と捉えてもよいと思います。恐らく突破されるリアリティというのは人間関係のそれだけではなく、風景のそれでもあるように思われます。つまりリアルを超えた美。人間というものは世界をこれほど美しく眺めることができるという例証。
・再び『耳をすませば』
『耳』における恋愛は、互いを見つめ合う類のものではなく、前を向いて地に足付けて歩く人のそれでした。『言の葉』においても、遠い地点を目指して歩こうとする少年が主人公です。前を向くこと。今作の最大のポイントはそこなのではないか、と思っています。
・・・・・・・・・・・・
という感じで、あえて『耳』との関連に的を絞って書いてみましたが、恐らく今作の最大の見所の一つは風景美です。日本にいる方は是非劇場でご堪能下さい。46分。1000円です。
・『耳をすませば』のモチーフ
今作には『耳をすませば』の残像があるように思います。主人公が靴作りの職人を目指す少年であることは、『耳』におけるバイオリン作りの職人を目指す少年というモチーフと響き合っていますし、また作中からは『耳』を仄めかす台詞を聞き取ることができました。家を出ていくタカオの兄が言う、「部屋が広くなっていいだろ」という台詞、それからクラスメイトの世間話の一部「ほんと月島らしいよな」という台詞。前者は、やはり家を出ていく汐(雫の姉)が言う台詞と共通しています。後者に関しては特に説明する必要もないでしょうが、雫の名字は月島でした。
・『耳をすませば』の変奏
『言の葉の庭』は、『耳をすませば』の変奏であると考えることができます。特筆すべき変更点は、少年目線になったこと、年齢差が生まれたこと。
・『耳をすませば』のテーマ
新海監督は『耳をすませば』が好きなことが知られていますが(http://www.anikore.jp/features/shinkai_1_3/)、彼はこの映画を初恋が実る奇跡的な物語として捉える一方で、それは現実にはほとんど例がないと冷静に考えてもいます(この点に関しては、『星を追う子ども』の舞台挨拶で触れられていたはずです)。したがって、『秒速5センチメートル』のような「初恋が実らない話」を作ろうとする意欲が生まれてくるわけです。新海監督が『耳をすませば』に本来備わっているのとは別の意味での「ありったけのリアリティ」(『耳』パンフレットにおける宮崎駿の言葉)を加えたのが『秒速』であるとみなせるのです。『言の葉の庭』においても、そのような意味での「リアリティ」は息づいているように感じられます。つまり、恋というものはお互い惹かれ合ってさえいれば必ず成就するようなものではないという現実=リアルが前提としてあるわけです。この前提を形成するのが本作における男女の年齢差でしょう。
・『耳をすませば』と風景
では、『耳』と『言の葉の庭』における共通テーマは何かと言えば、その最大のものは風景に対する視線だと思います。前者に関連して「イバラード目」と言われる世界に対する新鮮な視線は、一見すると凡俗で薄汚くさえ思える世界から、まるで子どもが初めて世界を目にしたときのような新鮮な驚きと喜びを取り戻してくれます。新海作品に通底している風景美は、まさにこのような「イバラード目」を視聴者にも授けてくれるかのようです。新海監督の視線のフィルターを通して見つめられた世界は、あまりにも美しい。『言の葉』においてその風景美は途方もないものになっています。輝いている世界を描くのみならず、そのような世界の輝きの独自の見せ方にも磨きがかかっており、「何を」「いかに」見ればよいのか、教えてくれているかのようです。
・リアリティを突破する
先程、男女の年齢差が一種のリアリティを形成していると書きましたが、もしもこの年齢差が乗り越えられない壁として機能し続けるのなら、リアリティはリアリティのままであることでしょう。ところが、この壁=リアリティは、突破される予感があります。その契機となったのは、タカオとユキノの心情激白でしょう。これまでの新海作品では、主にモノローグで物語が進行することが多く、登場人物の内に秘めた想いは必ずしも相手に届きませんでした。ところが今回、二人は感情を爆発させてダイアローグを行うのです。そしてそれによって、二人の距離は心理的にも身体的にも縮まることになります。ディスコミュニケーションからコミュニケーションへの転換と捉えてもよいと思います。恐らく突破されるリアリティというのは人間関係のそれだけではなく、風景のそれでもあるように思われます。つまりリアルを超えた美。人間というものは世界をこれほど美しく眺めることができるという例証。
・再び『耳をすませば』
『耳』における恋愛は、互いを見つめ合う類のものではなく、前を向いて地に足付けて歩く人のそれでした。『言の葉』においても、遠い地点を目指して歩こうとする少年が主人公です。前を向くこと。今作の最大のポイントはそこなのではないか、と思っています。
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という感じで、あえて『耳』との関連に的を絞って書いてみましたが、恐らく今作の最大の見所の一つは風景美です。日本にいる方は是非劇場でご堪能下さい。46分。1000円です。