快談爺流離日記

思いの儘に記す自然を好み身近の被写体を撮り歩く暇爺。

於大のみちⅡ

2011年04月23日 13時55分55秒 | 公園・風景・その他
春雨ですね恵みの雨です此れで草木も芽吹き青葉の季節も間近です、
雨降りですので日頃お邪魔している於大公園と於大の方に纏わる話題とします、

於大の方は尾張国知多郡の豪族水野忠政とその夫人於富の間に、父、忠政の居城緒川城で生まれた。
(青山政信の娘で忠政の養女で有ったと言う説もある)
父忠政は緒川からほど近い三河の国にも所領を持っており、(刈谷城)
当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせたが、松平氏とさらに友好関係を深めようと考え、
天文10年(1541年)「於大14歳」に娘の於大を清康の後を継いだ松平広忠に嫁がせた、
翌年、天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)於大は広忠の長男竹千代(後の徳川家康)を産む、(当時於大15歳)

しかし忠政の死後水野家を継いだ於大の兄水野信元が天文14年に松平家の主君今川家と絶縁して織田家に従った為、
於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の、三河国刈谷城(刈谷市)に返された。
於大は天文17年(1547年)には信元(兄)の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主、久松俊勝に再嫁する、
俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていたが、その妻の死後に水野家と松平家の間で帰趨が定まらず、
松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。
俊勝との間には三男三女をもうける。この間、家康と音信を絶えず取り続けた。

桶狭間の戦いの後、今川家から
自立し織田家と同盟した家康は、俊勝と於大の三人の息子に松平姓を与えて家臣とし、
於大を母として迎えた。於大は夫俊勝の死後、剃髪して伝通院と号す。

関ヶ原の戦い後、慶長7年(1602年)には、秀吉未亡人、北政所(おね・ねね)や後陽成天皇に拝謁し、
豊国神社に詣でて徳川家が豊臣家に敵意が無い事を示した、
同年、家康の滞在する京都伏見城で死去、(享年74歳)遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。
法名は、「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」彼女の菩提寺は各地に建てられた。

1画は、於大公園にある記念碑、

2画は、普賢象桜(フゲンゾウ)

3画は、楊貴妃桜(ヨウキヒ)

4画は、鬱金桜(ウコン)

5画は、関山桜(カンザン)

於大のみちⅡの画像

於大のみちⅡの画像

於大のみちⅡの画像

於大のみちⅡの画像

於大のみちⅡの画像