気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

真の教え ・・・ 4.方便

2010-12-02 09:17:33 | Weblog
私たちは 混じりものにまどわされてはなりません。



死んで極楽に生まれる ・・・ などと思いこんだり

呪術的なものが仏教だ ・・・ と うけとってはならないのです。


それらは 無知な人びとに簡単にわかるように

  ・・・ 「方便」としてつくられたもなのです。



* 2010.11  東ブータンで





真の教え ・・・ 3.混じりもの

2010-12-02 08:03:57 | Weblog
後に 何百年かたって

釈尊のような偉大な人が 人間であるはずがない

この人の前世は 神かホトケさまであったのではないか

  という考えがつよくなり 釈尊は神秘化されてしまい

  ・・・ さまざまな奇蹟や神話がつくられました。


また

釈尊の説かれた教えが

  あまりにも明快で 淡々としているため

表面に現われていない教えがあるはずだと

  さまざまな推理や憶測がくりひろげられ

  ・・・ 厖大(ぼうだい)な仏教哲学書がつくられました。



そして

そうした後世の人たちによってつくられた「経典」こそ

いま私たちが「仏教だ」といって大切にしている

  「法華経」であり 「阿弥陀経」なのです。



もちろん

法華経にも 阿弥陀経にも 釈尊の精神はうけつがれています。


しかし

そのなかに 後の世の人たちの勝手な解釈が

  混じりこんでいる ・・・ ことも事実です。



* 2010.11  東ブータンで





真の教え ・・・ 2.正法

2010-12-02 07:11:18 | Weblog
人間というものは

どんなに長く教えてもらっていても

  習えば習うほど 何か疑問が起こるものです。


ききたいこと たずねたいことが つぎからつぎへと出てくる。


「 まだ先生は充分に教えてはくれていない。

  ぎりぎり最後のものを残しているのではあるまいか 」

    ・・・ と気になる。


阿難の気持ちは よくわかります。



しかし

釈尊は阿難に対し きっぱりと

「 われは内外のへだてなく ことごとく法を説けり 」

  ・・・ とおっしゃったのです。


なにもかくしていない 「正法に不可思議なし」 ・・・ と。



私は この釈尊の聖句(ことば)に強くうたれます。


「秘密」「口伝」あるいは「神秘的」なるものは一切ない

  という ・・・ このおおらかさ 合理性。


・・・ これこそ「仏教」の真骨頂です。



* 2010.11  東ブータンで





真の教え ・・・ 1.かくすものなし

2010-12-02 06:12:29 | Weblog
われは内外のへだてなく ことごとく法を説けり

いまわれに弟子(ひとびと)にかくせる法とていささかもあることなし

                     (長部経典)



 80歳で最後の旅にのぼられた釈尊は、亡くなる少し前に、はげしい下痢に見舞われました。 彼は老躯に残る力をふりしぼって病と闘い、小康をえた。

 それをみて そばにつきそう阿難が
「どうなることかと心配でたまりませんでした。私はまだ、師の教えがすべてのみこめておりませんし、もっともっと教えを与えて下さってからでなければ、師はきっと亡くならないと信じていました」といいました。


 そのとき、釈尊はきびしい表情で

「 お前はこれ以上何を私に望むのか

  私は一切のかくしだてなく

    自分の信ずる真理を語りつくしてきた。

  秘密の真理など一つも残していない 」 ・・・ といわれました。



 釈尊は このことばをはかれた後三ヶ月して亡くなりました。



* 2010.11  東ブータンで





欲望 ・・・ 6.老人問題

2010-12-02 05:04:08 | Weblog
老人問題をいくら論じても新しい展望がひらけてこないのは

老人自身が

  この長生きしたいという欲愛・有愛の根っこをつかまえ

  ・・・ みつめていないからです。



さまざまな欲望に身をまかせきって

  いくら幸せを求めても ・・・ けっして幸福にはなれません。




欲愛よりはげしき火なく

いかりにまさる不吉の骰子(さい)はなし

                     (法句経)再掲


欲愛に駆り立てられし人は

かの罠(わな)にかかりし兎のごとく走りまわるなり

                     (法句経)再掲



* 2010.11  東ブータンで





欲望 ・・・ 5.気づき・苦しまなければ

2010-12-02 05:03:25 | Weblog
人間は 欲望にとらわれた「とらわれた兎」 ・・・



では どうしたらよいか ・・・ と 私たちはすぐ回答を求めます。

  ・・・ せっかちすぎます。



まず

人間にとって それほど欲愛の火がすざましいものであること

欲がいかに人間を幸・不幸の風波でもみくちゃにしているか

  ・・・ それを知ることです。



ここに気づき 苦しまなければ 道をたずねることすらできない

  という釈尊のきびしい そして 冷徹な教え

                ・・・ が このことばなのです。



* 2010.11  東ブータンで






欲望 ・・・ 4.とらわれの兎

2010-12-02 05:02:47 | Weblog
人間は 死を苦しみとする。

いったいこの苦しみのもととなる欲望とはなにか。


釈尊は それを有愛と呼んでいます。



いつまでも存在していたい ・・・ という存在への執着です。

せめて生命だけは助けてくれ・・・ というよくによるのです。


かりに人間は

  権力欲や情欲からとき放されたとしても

  ・・・ この「有愛」からは逃げきれない。

有愛は 欲望のなかでももっとも深いものです。



だが一方には 死んでしまいたいという人がいる。

これは 欲のない状態といえるのか。

  ・・・ ちがうと釈尊はいいます。


それもまた「無有愛」という欲

  存在したくないという欲望のあらわれにほかなりません。


自殺や破滅への衝動 死へのあこがれは ・・・ やはり欲愛なのです。



このように 人間は欲望にとらわれた

         ・・・ 「とらわれの兎」なのです。



* 2010.11  東ブータンで