気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

融(と)けあう心 ・・・ 5.自己育成

2010-12-07 09:03:36 | Weblog
印度の古代語では

  「水が澄みきった」ことを「信ずる」といいます。


怨み・争い・わだかまり・憎しみのない清澄な心

  ・・・ それこそが「信」です。



「信」は 自分と他人との垣根をなくし

  「自他一如」 「上下一如」へと発展します。


黙っていながら目と目 心と心がしっくりとくる

  ・・・ それが解脱の心境です。


釈尊のいわれた「止めよ 止めよ」の聖句は

  ・・・ 実は そのような宗教的心境をあらわしているのです。



学者先生がそれを悟ったかどうかわかりません。


今日でも 文化人は能書きばかりのべています。

心のふれあいに生きることの尊さ ・・・ を忘れているのでしょう。



人間の幸せというものは

  千語万語にまさる沈黙の涙をもつ自己の育成にある ・・・ のです。


相手に求める前に まず自分に

  ・・・ 「止めよ 止めよ」の声をひびかせることですね。




* 2010.11  東ブータンで





融(と)けあう心 ・・・ 4.心きよければ

2010-12-07 07:41:37 | Weblog
「心きよければすでに足る」とは

互いに澄みきった清い

  不純さや疑いのない気持をもてば わだかまりはとけるのだ

  ・・・ ということです。



批判も かけひきもない

上も下もない

  ・・・ 胸にずしんとくるものがあればよい。



仏教では

「自らその意を浄うする これ諸仏の教なり」

  ・・・ ということを 昔からくり返しています。


「自浄其意是諸仏教(じじょうごいぜしょぶっきょう)」

  ・・・ です。




止めよ 止めよ

礼を作(な)すこと須(もち)いざるなり

心きよければすでに足る

                  (雑阿含経) 再掲





* 2010.11  東ブータンで





融(と)けあう心 ・・・ 3.涙の解決

2010-12-07 06:13:27 | Weblog
対立の世界は「理智の角ばり」によるものです。


信じあっている者に論議は不要です。


頭のケンカや知識の応酬 権利義務の主張といった冷たいところに

  ・・・ 対立を解く道はひらかれません。



「和解には涙がある」と ある人がいいました。


理屈や対立から涙は出ません。

対立の城から素っ裸になって飛び出してこそ ・・・ 涙の解決がある。


型や順序もかなぐりすてて 捨て身になって抱きあってこそ

  ・・・ 人と人の心は結ばれます。



その気持を釈尊は


「 止めよ 止めよ

  礼を作(な)すことを須(もち)いざるなり 」


  ・・・ と簡潔にいわれたのです。




* 2010.11  東ブータンで





融(と)けあう心 ・・・ 2.心と心

2010-12-07 05:40:36 | Weblog
 婆羅門は、どちらが最初に礼をすべきかとか、さらりすべきことにもいちいち角をたて形式ばろうとする。
名声 門閥などというものにこだわる人でした。



私たちの回りにも そうした人はたくさんいます。


自分のほうからぐいぐい圧迫してきて 相手との間に冷たい溝をつくる。

ちょっとした態度 言葉にもひっかかってすねてくる。


手紙一本よこさんとか お礼の返事もしてこないと怒る。

そうした格式にこだわる人がいます。



しかし

人と人との交わりには そういった儀礼とともに

巧みな言葉など不必要とする

  心と心との融けあいがなくてはなりません。


親子兄弟の間柄に面倒な言葉づかいが要らないのは

  たがいにうちとけあっているからでしょう。


いろいろと言葉のあやをつかって説明すればするほど

  ダメになってしまう人間関係というものがあります。

  ・・・ それこそほんとうのふれあいでしょう。



だいいち 説明の言葉が多いのは

  ・・・ いわば 融けあっていない証拠です。


融けあっていないからこそ

  ・・・ あの言葉この言葉がいるのです。




* 2010.11  東ブータンで





融(と)けあう心 ・・・ 1.形式

2010-12-07 04:32:02 | Weblog
止めよ 止めよ

礼を作(な)すこと須(もち)いざるなり

心きよければすでに足る

                  (雑阿含経)



 あるとき 遊説中の釈尊のところへその土地の格式、門地(いえがら)の高い婆羅門がたずねてきました。
 婆羅門とは いまでいう学者です。
 釈尊に会って学問上の論議をかわそうと訪問したわけです。

 そのときの学者の装いというのが大変なもので、白い馬車に乗り、弟子を大勢つれて金の柄のパラソルを持ち、それに水の入った金の瓶を手にしていました。
 経典では「大変豪壮な様子だった」と語っています。

 だが、運悪く釈尊は説教のさなかで土地の名士である著名学者の訪問に気づかず、別段改まった挨拶もされませんでした。
 ところが学者先生は心中おだやかではありません。「わしのような大学者が、かくも正装してわざわざ訪れたのに挨拶一つせぬ、相手にせぬというはけしからん」と、ただちにくびすを返すと立ち去ろうとしました。

 そのときちょうど釈尊は説教を終え、婆羅門の後姿に向かって声をかけ、大声で詩偈を語られた。
 その言葉にうたれたのか、学者は再び釈尊のところに戻ってきました。
そして二人は学問上の議論をはじめた。

 やがて気負いたっていた婆羅門は、釈尊の教えにうなだれ、静かに耳をすませるようになった。
 が、急に居住まいを改め、襟を正して、開き直ったような大袈裟な礼拝をしようとした。
そのときです、釈尊は冒頭に掲げた聖句(ことば)をはかれた。



「 止めよ 止めよ 礼を作すこと須いざるなり。

  心きよければすでに足る 」


  ・・・ 実に しっとりした心づかいではありませんか。


「 もういい、もう沢山だよ。

  そんなに仰々しいお辞儀をせずともよい。

  心が浄ければ もうそれでいいのだ 」


  ・・・ くだけた 胸をうちわった微笑の言葉です。




* 2010.11  東ブータンで





真の自由とは ・・・ 6.子どもの成長

2010-12-07 04:31:03 | Weblog
なにものにもしばられぬ

  清澄なる高い誇りに生きる自由

  ・・・ それが 仏教の求める「仏の境地」なのです。



釈尊は シガーラの妻に (真の自由とは・・・3.参照)

  くよくよするな

  真の自由になれ ・・・ と教えられたわけです。


「他」という環境

  仮りものの自己に翻弄(ほんろう)され

           ・・・ 隷属しない自分の追及です。



子どもの成長とは
 
まず 親の「保護」という「他」をぬぎすてる

           ・・・ ところからはじまります。




* 2010.11  東ブータンで