気の広場

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反報(かえすこと)を知れ ・・・ 4.人間の条件

2010-12-05 14:28:42 | Weblog
私たちは口をひらけば

  恩を知らぬ人ばかり増えてきた ・・・ と嘆きます。


一杯おごってやっても

  ・・・ お礼もいわんといって いきりたちます。


それが 私たちの住む社会です。



なんとかして

  もっとまともな 礼儀の正しい世の中にしたいものです。


それには

この釈尊のことばを

  ・・・ くり返しわが身になげかけることです。



一本の草花 ひときれの魚に手をあわせる生活を

  ・・・ まず自分が実行してゆくことです。


そこから 若い人びとも

  「われひとりにあらず」の真理を学び

  ・・・ 「反報」が人間の条件であることに気づくでしょうね。



もし人ありて反報を知る者は この人は うやまうべし

                    (増一阿含経) 再掲




* 2010.11  東ブータンで





反報(かえすこと)を知れ ・・・ 3.見えざる力

2010-12-05 12:04:46 | Weblog
恩を知らぬ人間は「虫けら」だといいます。



しかし

目に見えぬ恩 数えきれぬ世の恩にありがたいと思う心をもって

  日々生きぬくことは 決して簡単なことではありません。


現代の日本人の生活が その難しさを物語っています。



釈尊は 親の恩とか師の恩などという手のとどく

  わかりきった狭い恩のことを語っているのではありません。


・・・ 見えざる力への感謝を問うておられるのです。




* 2010.11  東ブータンで





反報(かえすこと)を知れ ・・・ 2.感謝

2010-12-05 09:16:04 | Weblog
一粒の米 一片の肉を口にするとき

  ・・・ 「反報」を知る心をもって臨んでいるだろうか。


郵便配達員が雪をふみしめて速達を届けてくれたとき

  ・・・ 心の底からありがたいと感謝しているだろうか。


生きるために必要な一切の諸物に

  ・・・ 手をあわせて 毎日をすごしているだろうか。



もしそうした「恩を知る」 「生かされている」

  という気持をもった日本人が10万人でも20万人でもいたら

どうして

  公害で魚介類を殺し

  樹木を切り倒し

  空気や水を汚染しながらもプラスチックを使い

  車をのり回し

  欲望にふくれあがって

    ・・・ 明けくれすることができるでしょうか。



老人福祉にしても

いまの私たちの豊かな生活をつくるために

  努めたこの人たちへの報恩の心があったら ・・・

もっと温かく

  いたわりをもって扱ってあげられるのではないでしょうか。




* 2010.11  東ブータンで





反報(かえすこと)を知れ ・・・ 1.恩

2010-12-05 07:16:03 | Weblog
もし人ありて反報を知る者は この人は うやまうべし

                       (増一阿含経)



「反報」とは 恩ということです。


恩を知る者は尊敬されねばならない ・・・ と釈尊はいいます。


しかし ここでいう恩とは

誰か世話になった特定の人に恩返しをするということではありません。



釈尊はしばしば「この世にあるものひとりにあらず」

  ・・・ とおっしゃってます。


私たち人間は自分の力だけで生きているように思いこんでいるが

実はそうではなく ・・・

無数の他人の力・世間の力を受けとり

数知れぬ人びとの骨折りによって

  「生かされている」のだ ・・・ という教えです。



この事実に気づく人

そして しみじみとありがたいことだなあと思える人

  その人こそ 尊敬されなければならない立派な人である

    ・・・ と釈尊はいわれるのです。




* 2010.11  東ブータンで






我もまた田を耕すなり ・・・ 4.世間有用

2010-12-05 06:14:52 | Weblog
釈尊は 職業の貴賎など問題とせず

  ・・・ 「世間有用」を重視にしたのです。



子どもらの基礎学力をしっかり「根下ろし」しない教師は

「田を耕す」どころか

  ・・・ 聖職者でも 労働者でもない 浮浪者です。



私は 実業界の人によばれて話をするとき

  この釈尊のことばを思い出します。


この人たちは

ものをつくることだけが「生産」だと思い

  精神的な仕事を一種の遊びと受けとっています。


ちょうど釈尊にくってかかった農夫とおなじです。



「われも田を耕すなり」 ・・・

  いったい自分はどうか

    こころもとなかったら

           ・・・ この句を口ずさんでみることですね。




* 2010.11  東ブータンで





我もまた田を耕すなり ・・・ 3.種子をおろす

2010-12-05 05:43:03 | Weblog
人間社会に役立つ働き ・・・
 
それは

  精神労働であろうと

  筋肉労働であろうと すべて「田を耕す」ことなのです。


私たちは 「労働」というと

  身体を動かし

  人を使う経済活動や現場仕事を思いがちです。


おろかな形式主義です。



「田を耕す」とは

  頭脳や肉体の区別なく 社会に役立つか否かで決まることです。


「田」とは 生産的という意味です。



頭だ 身体だ 8時間だ 3時間だ

  ・・・ などという形式に関係ありません。



いくら肉体労働でも

  頭がからっぽでは 何時間働いても何の役にも立ちません。

徹夜で原稿を書こうとも

  ポルノ小説をつくっているようでは 田を耕すとはいえません。



主婦が 子どもを育て

  カロリーの高い食事をつくるのも立派に生産的な仕事だということも

  ・・・ この教えからよくわかると思います。



どんな職業であろうとも

  社会に有効な「種子」をおろさねば

             ・・・ 生産とはいえないのです。




* 2010.11  東ブータンで





我もまた田を耕すなり ・・・ 2.耕すのは

2010-12-05 05:42:01 | Weblog
釈尊が どんなときに
  「われもまた 田を耕すものなり」ともらされたのでしょうか。


 農繁期で忙しいある村に立ち寄ったときです。
釈尊は大勢の農夫があぜ道で食事をとっている前に黙然ととして鉄鉢を持って立ちました。よほどその毅然たる態度が癪(しゃく)にさわったのでしょう。主人らしい男が声を荒げて
「あなたはいつもそうやって説教したり、乞食をしてぶらぶらしている。私たちはこうやって田を耕し、種子をまいて食をえているのだ。あなたも自分で種子をまき、田を耕して食をえたらどうです」といいました。

 釈尊は額に汗を流して詰問するその農夫に向かい逍遥(しょうよう)として答えたのです。


「 われもまた田を耕し

  種子をおろし

  もって自ら飲食を供えるものなり 」


 農夫はその自信に満ちた口調にたじろぎながら
「あなたのそんな姿をみたことがない。どこに鋤(すき)がある。どこに牛がいるのか。どんな種子か」と問うたのです。

 釈尊の返事は明快そのものです。


人間が耕さねばならぬものは大地ばかりではない。

人間自身を耕さねばならない。

私は その人間そのものを耕している。

私の鍬は知恵であり 種子は信であり 牛は精進と熟慮である。

人間は この耕作をえて はじめて苦よりのがれることができる。



なんという強い確信でしょうか。

筋肉労働をし 田を耕しているから労働者だ とか

教育に携わっているから聖職者だ などという無意味な区分けは

  ・・・ このことばの前にふきとんでしまいますね。




* 2010.11  東ブータンで






我もまた田を耕すなり ・・・ 1.心の師

2010-12-05 05:41:15 | Weblog
われもまた 田を耕すなり

                (スッタニパータ)



よく教師は 「聖職者」か「労働者」か

  ・・・ と やかましく議論されます。


(* 近頃は議論の対象にすら ならなくなりましたかな~)



このはてしない論争に

  釈尊のことばは 回答を出しておられます。



釈尊は一度として

自分で田を耕したり 種子をまかれたりして

  ・・・ 肉体労働をされたことがありません。


しかも 托鉢乞食をし

人びとの布施(ほどこし)によって ・・・ 生命を支えています。


いわば 「心の師」として

  ・・・ 精神教育に携(たずさ)わっている方です。



その人が

「われもまた 田を耕すものなり」

  ・・・ と 胸はっていいきっているのです。




* 2010.11  東ブータンで