気の広場

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真の自由とは ・・・ 5.父母といえども殺せ

2010-12-06 09:05:06 | Weblog
仏(自由)を外に求めるな

内に求めて

  ひたすらおのれの中に一無位の真人を養うことだ。



自己の自由をさまたげるものあれば

  父母といえども殺せ ・・・ 臨済は痛烈です。


殺せというのは

自分のなかにある父や母への甘え

親から与えられた心の仮り着 束縛を断て ・・・ ということです。




* 2010.11  東ブータンで





真の自由とは ・・・ 4.はつらつたる人間

2010-12-06 06:36:30 | Weblog
素っ裸の自分になるにはどうしたよいか。


臨済という僧は

「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)一無位の真人」といいます。



赤い肉がぴちぴちとはねる素裸の人間

位(くらい)のない 飾りのない自己 ・・・ それが自由人である。

これをめざさなければ 真に自己をあらわすことができない。


はつらつたる人間とは

  ・・・ こうした主体性の自由をもつ人間だ。



人間は 順調な時もあれば逆境もある。


だが この境目の奴隷になって

ふにゃふにゃ いじいじしていたのでは

  ・・・ いつも状況に左右されてしまう。


どこにいても主権者になることだ。



これを臨済は

「随所主と作(な)れば たちどころに皆真なり」

どんな逆境においても主人公(仏)になれる

              ・・・ といいきるのです。




* 2010.11  東ブータンで





真の自由とは ・・・ 3.主人公

2010-12-06 05:33:20 | Weblog
政治的 社会的自由とともに

  その土台となる自己からの自由をさぐれ。


それには

自分の欲望に隷属していたのではいけない。

飾りものの自分をぶち破って 自由自在の自己となれ。

自分の主人公となり 自己の主権者となれ。

貪欲や嫉妬や虚栄にふり回されない確たる自己を見出せ。

  ・・・ ということです。


この釈尊の教えを

  もっとも忠実に実践していったのが禅家の人たちです。




* 2010.11  東ブータンで





真の自由とは ・・・ 2.他(ひと)

2010-12-06 04:33:25 | Weblog
この聖句は

シガラーという長者の妻が

  裁判に負けて不快の念をいだきながら 釈尊を訪れ

この不快な気持にうち勝ちたいと願ったのに対して答えられたものです。



ここでいう「他」とは 直接に王という権力者をさしています。


不公正な権力者のもとで暮らすのは苦である。


因習にとらわれた制度の下で生活する民衆は苦しむ。


あらゆる人びとがのびのびと自分らが主権者となって

  制度をつくり 政治を行うのがもっともよい。


  ・・・ こういっておられるのです。


いわば 民主的な事由によって公平さの守られるような社会をきずけ

  ・・・ という提言です。



しかし それだけが眼目(ねらいめ)ではありません。


この「他」は 自分の外にだけでなく おのれの内部にもある

  という指摘をふくませているところに

              ・・・ 釈尊の教えの深さがあります。


これこそ聖句(ことば)からよみとるところです。



他(ひと)隷属する(つかえる)ことは すべて苦なり

自在の主権は楽し

                    (ウダーナ)再掲




* 2010.11  東ブータンで





真の自由とは ・・・ 1.隷属(つかえる)

2010-12-06 04:32:36 | Weblog
他(ひと)隷属する(つかえる)ことは すべて苦なり

自在の主権は楽し

                    (ウダーナ)



このことばを表面的にうけとれば

  大変常識的なことをいっているようにみえます。


他人(ひと)に仕え

  誰かに従って生活することが苦であることぐらい

  ・・・ 小学生でもわかっています。


人間は自由勝手に生きたいし

  いつも自分が主人公になってふるまっていたいものです。



子どもの反抗期というのは

この「隷属」への反発をもち

  自分が主権者になりたいと思い出したときはじまります。


父や母が煙ったく うるさい存在に映ってくるのは

  ・・・ それを苦と感ずる年頃になった証拠でしょうね。



サラリーマンも いつかは社長になりたいと思うし

陣笠代議士も 総理大臣を夢みている。


仕える喜びより 支配の楽しみを求めるのが人間です。




* 2010.11  東ブータンで