2012年5月21日。金環食になるという7時30分ごろは、出勤前の忙しい時間帯です。取り立てて観察のための道具も用意していませんでした。当日が曇りでまったく何も見えないかもしれませんし、そもそも次に見られるのは何百年後だというようなスケールの大きすぎる天体ショーは、見たからどうなのよという気持ちにもなります。自分の好きなミュージシャンが近くのホールでコンサートをやるのを見られなければ悔しい思いもするでしょうが、おそらくこれからも自分が生きている間に遭遇することがないものは、見られなかったからといってどういうこともありません。そう思って、当日まで静観していたのです。
直接太陽を見てはいけないとうるさいほど聞いていました。7時ごろに、直径1センチくらいの丸い穴のあいた紙を使って壁に写してみますが、○はどう見ても○で、テレビからやってくる串本町の画像のようには欠けてきません。これじゃダメなのかなぁとあきらめていました。ふと気付くと、レースのカーテンに写る木漏れ日は確かに目を細めたようにも見え、普段と違う様子です。
そうこうする間に、雲がかかり始めました。残念と思ったのですが、却って肉眼でも見やすくなりました。当初、コンパクトデジカメを使って撮影しようと思っていました。直接見てはいけないのなら、写っているものをモニター画面で確認できるコンパクトデジカメのほうが目標物を画面に収めやすいはずだと考えたのです。誤算でした。相手がまぶしすぎるのでピント合わせができないのです。コンデジの測距機能くんの目がくらんだ状態なのでしょう。仕方がありません。一眼レフを取りだして、自分は偏光グラスのメガネをかけて、ファインダーを覗いたのでした。晴天ならきっとまぶしすぎたのでしょうが、適度な雲のおかけで環がしっかりと見えました。写真にも収まった…はずです。やがて、環から三日月状態に少しずつ変わっていくのも、望遠レンズ越しに確認できました。辺りの風景は明らかに季節や時刻に不釣り合いな暗さです。月によって光がさえぎられていることが体感できました。
観察道具を用意しなかったことを雲に助けられた格好です。
夜、帰宅して、今朝ほど撮影した画像をコンピュータに取り出して眺めてみます。それなりに写っています。それに太陽をベールで包んだような薄雲に、微妙な色がついてちょっと面白い様子に見えます。儲けモンです。冷静に撮影したつもりでいましたが、一通り写真を眺めてみて、かなり焦っているというか浮ついている撮影者が見えてきます。露出を変えてみるとか、アングルに工夫するとかがほとんどできていません。同じような露出、同じような写真ばかりになっています。年に一度くらい、いや数年に一度くらい「夢中でシャッターを切る」という風景にでくわすことがありますが、まさにそんな状態であったことが、画像から見えてきます。
翌日はほぼ一日雨でした。前日に日食を見られた幸運を思います。それから。それからこの日は東京スカイツリーの開業日。世間じゅうスカイツリーの話題ばかりで、世紀の天体ショーはまるで遠い過去のことのようです。
日本語から余韻という言葉が消える日もそう遠くないかもしれません。
さすが、コンデジで撮った私のより上手く撮れてますね。
お互い普通なら残念な雲がかかったことで観ることが出来たってのが、ツイてましたし、そもそもうまく雲がかかれば、肉眼で確認できるなんてこと自体、全く予期してなかったところが面白いことです。
しかし、じっくりと余韻に浸るってのは、デジタル時代になって、最も失われたことのような気がします。
余韻、余情、余白、余地、余暇、余談、余裕、余力。こういうものが、世の中から排除されていきますねぇ。
みんな疲れてしまいますよね。