自分らしいお葬式やお墓を考えましょう。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

親鸞の思想

2018-11-19 10:37:03 | 日記
 11月17日(土)、岡山の「女たちのおしゃべり会」があり、その会員であるひとりから親鸞について話してほしいという要請を受けました。親鸞について知らない人はいないぐらいよく知られた仏教者であり、有名であり、その上、多くの人が好きな人物です。
 しかし、ほんとうに親鸞の思想が伝わり、実践している人が多いかというと、そうでもない気がします。なぜなら、教団にとって、また寺に住むものにとって、必ずしも都合のいい思想ではないです。むしろ困る思想だからです。
 わたしは、その教団や寺が困る親鸞の思想を依って立つところとしたいと思っています。ただ、そう簡単ではないのは事実です。
 では、どのあたりの親鸞の思想があてはまるのかを、その会で話しました。
 まず、国王不礼(ふらい)の考えです。「出家の人の法は国王に向かって礼拝せず」(『教行信証』「化身土巻」)にあるように、国王や天皇を礼拝し、それに帰依してはならない、といいます。
 また、「余のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからずさふらふ」(『親鸞聖人御消息集』)といって、地方の権力者や権力や財力に依存して、念仏の布教をはかってはならないことを示しています。
 なかなかむずかしくなるのは、父母不礼です。「父母に向かって礼拝せず、六親につか務へず」(『教行信証』「化身土巻)といい、父や母やきょうだいなどを供養しないということです。『歎異抄』第五章には
「親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と明言しています。
 もっともむずかしくなるのが、神祇不拝です。「鬼神を礼せず」(『教行信証』「化身土巻)といい、所謂神頼みをしないということです。「困ったときの神頼み」として、多くの日本人は神に頼みます。受験のとき、神社に行った人は、わたしの周りに多くいます。神社に行って合格するようなら人生簡単です。
 最後に、死後の身体観です。「某(それがし)親鸞閉眼せば賀茂河にいれてうほにあたふべし」(覚如『改邪鈔(がいじゃしょう)』)という親鸞の娘である覚信尼の孫が書き残しています。自分が死んだら、賀茂川に流して魚のエサにしてほしいという遺言とも受け取れるものです。
 この考え方をつれあいと共有していたので、わたしたちはどちらが先に亡くなってもお互いの骨を拾わないと決めていましたし、実際、わたしはつれあいの骨を拾いませんでした。遺体や骨に意味がないことを親鸞は伝えたかったと思います。

 こういう親鸞の考えを話しましたが、初めて聞いた話ばかりだという意見があり、むずかしいけど惹かれるという感想がありました。
 わたしは単に惹かれるということではなく、親鸞の思想に寄って生きたいと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする