8月6日にペットの猫が亡くなってから、ブログを書く元気が出なかった。今もその状態に変わりはないが、少し前向きにならなければ、と思い、ブログを開いた。
亡くなった後、目の前に見えるネコのいろいろなもの(エサ、おしっこ用の砂箱、夏用の寝るタオル地、冬に入るお家、冷凍庫の焼いた小アジ、ブラシなど)をみるのが辛かった。目の前からなくそうと早くに決心し、捨てるものは捨てて片づけた。小アジは南蛮漬けのようにしてお世話になった人に食べてもらった。
最後になくなった洗濯機と脱衣かごの間から、ネコの臭いがいまだにしている。とくに雨のとき、窓を閉め切ると臭いを感じる。お世話になった人は臭わないというけれど、わたしは感じる。
まだまだ元気なときは、わたしが留守をすると、わたしへ腹を立てておしっこをしていた。その始末はネコをその場へ連れて来て、「ここでおしっこをしてはいけないでしょ」的な始末をしていた。叱ってもかまわない状態だった。だっこしているところから逃げようと暴れていた。
しかし、最期に近づくにつれて、おしっこのところまで行くことができずに途中でおしっこをしたり、少し食べたものを吐いたりするのが、場所を選ばなくなってしまった。ほんとうのところ、世話は大変だった。だけど、最期が見えてくるようになると、後始末をするのに、涙が出てきて仕方がなかった。死に場所を選んでいるのかと思うことが二度あった。一つは、ベランダに出ようとして網戸をひっかいていたこと。もう一つは、風呂場の風呂桶の下へ潜っていったこと。風呂桶のときは、さすがにあわてた。どこを探しても姿が見えず、鳴かないのでどこにいるかわからなかった。長いしっぽの端が少し見えたときは驚いた。暗いところへ、あんな狭いところへ入り込んでいたのだ。最後の力を絞りながら、死に場所を探しているかと思うと、人間よりもすごいという感じがする。
亡くなってから1ヶ月以上が過ぎた。ペットが家族だと実感するのは、同じだ。わたしは責任感だけは果たさなければならないから、仕事はキチンとしてきた。しかし、急いで帰らなくてもよい、帰ったときに「ただいま」がいえない。家のなかは静かなまま。何ともいえない寂しさが襲ってくる。
自分にウソはつけないから、その寂しさと裏腹に、世話をしなくてもよくなったこと、アジを焼かなくてもよくなったこと、外での楽しい時間は、「早く帰らねば」という気持ちをときどき忘れている。いい方は悪いが、世話をしなくてもよくなった面、楽になったことも事実だ。
家にいるとき、ちょっと時間があいたときなど、メイがいたら遊んでいるのに、と思うし、自分勝手な思いがして、情けなく思う。
毎日思わない日がないのは、つれあいとメイのことである。ほんとうに先に逝かれて寂しい。
ショートステイに行っている母のことは思わない日があるので、わたしにとっての大事な人がよくわかる。
亡くなった後、目の前に見えるネコのいろいろなもの(エサ、おしっこ用の砂箱、夏用の寝るタオル地、冬に入るお家、冷凍庫の焼いた小アジ、ブラシなど)をみるのが辛かった。目の前からなくそうと早くに決心し、捨てるものは捨てて片づけた。小アジは南蛮漬けのようにしてお世話になった人に食べてもらった。
最後になくなった洗濯機と脱衣かごの間から、ネコの臭いがいまだにしている。とくに雨のとき、窓を閉め切ると臭いを感じる。お世話になった人は臭わないというけれど、わたしは感じる。
まだまだ元気なときは、わたしが留守をすると、わたしへ腹を立てておしっこをしていた。その始末はネコをその場へ連れて来て、「ここでおしっこをしてはいけないでしょ」的な始末をしていた。叱ってもかまわない状態だった。だっこしているところから逃げようと暴れていた。
しかし、最期に近づくにつれて、おしっこのところまで行くことができずに途中でおしっこをしたり、少し食べたものを吐いたりするのが、場所を選ばなくなってしまった。ほんとうのところ、世話は大変だった。だけど、最期が見えてくるようになると、後始末をするのに、涙が出てきて仕方がなかった。死に場所を選んでいるのかと思うことが二度あった。一つは、ベランダに出ようとして網戸をひっかいていたこと。もう一つは、風呂場の風呂桶の下へ潜っていったこと。風呂桶のときは、さすがにあわてた。どこを探しても姿が見えず、鳴かないのでどこにいるかわからなかった。長いしっぽの端が少し見えたときは驚いた。暗いところへ、あんな狭いところへ入り込んでいたのだ。最後の力を絞りながら、死に場所を探しているかと思うと、人間よりもすごいという感じがする。
亡くなってから1ヶ月以上が過ぎた。ペットが家族だと実感するのは、同じだ。わたしは責任感だけは果たさなければならないから、仕事はキチンとしてきた。しかし、急いで帰らなくてもよい、帰ったときに「ただいま」がいえない。家のなかは静かなまま。何ともいえない寂しさが襲ってくる。
自分にウソはつけないから、その寂しさと裏腹に、世話をしなくてもよくなったこと、アジを焼かなくてもよくなったこと、外での楽しい時間は、「早く帰らねば」という気持ちをときどき忘れている。いい方は悪いが、世話をしなくてもよくなった面、楽になったことも事実だ。
家にいるとき、ちょっと時間があいたときなど、メイがいたら遊んでいるのに、と思うし、自分勝手な思いがして、情けなく思う。
毎日思わない日がないのは、つれあいとメイのことである。ほんとうに先に逝かれて寂しい。
ショートステイに行っている母のことは思わない日があるので、わたしにとっての大事な人がよくわかる。