自分らしいお葬式やお墓を考えましょう。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

出版記念シンポジウム

2020-07-28 11:21:47 | 日記
 一年遅れの本が出版されました。『いつまで続く「女人禁制」ー排除と差別の日本社会をたどる』(解放出版社、2020年3月)です。2018年4月に行われた「舞鶴場所」で、市長が土俵上で挨拶をしているときに倒れ、女性の看護師が土俵上へ駆け上がり、救命措置をした事件がありました。そのとき、行司が行ったアナウンスは、「女性は土俵から下りてください。女性は下りてください」でした。土俵上が「女人禁制」を全国に知らせました。その事件をただ一人、違う目でみていた女性がいました。明くる日、行われる予定の宝塚場所で挨拶をする予定だった中川智子市長です。彼女は、前年も「宝塚場所」があり、挨拶をしていましたが、土俵下でした。彼女が見た「舞鶴場所」の市長の挨拶が土俵上だったため、「なぜ?」の疑問を持ったのです。「同じ市長なのに、男は土俵上、女は土俵下」に対してです。すぐにその疑問を日本相撲協会に糺したのが、中川さんらしいところです。「同じ市長だから土俵上で挨拶をさせてほしい」ことを伝えました。まっとうな主張です。ところが、「協会」はイエスとは答えませんでした。何度のやりとりにもかかわらず、結局は中川さんは土俵下で挨拶をすることになりました。「悔しいです。辛いです。伝統も変えるべきものがあります」という挨拶は、短い時間にいわねばならぬことを考えた末の挨拶でした。
 土俵上の「女人禁制」が問題になったので、奈良県の「大峰山」についても知らない人がいる。「女人禁制」のブックレットを出したら、と友人がアドバイスをくれました。すばらしいアドバイスだとわかり、わたしは動き出しましたが、出版社が見つかりません。最終的に解放出版社が決まり、書き手を募りました。「女人禁制」から派生する問題も書いてもらいたいと、10人の書き手の了解を得ました。問題が起こった一年後の出版を目指し、4月にはシンポジウムを開きたいと予定を立てました。
 12月末に原稿を締め切りにしたら、3月末の出版は可能でした。ところが、最初にも記しましたが、一年遅れの出版になりました。責任者として原稿の催促、督促を何度行ったことでしょう。編集者にも同じことをしてもらいました。途中から諦めました。「できるときにしかできない」という心境になりました。

 一方で、わたしは東本願寺で行われたギャラリー展のパネルをはずされた事件に遭いました。2018年11月です。詳しいことは省略しますが、「経典に表された女性差別」のタイトルで7枚のパネルを作成することを依頼され、監修者としてそのパネル作成に関わりました。ところが開催間近、宗務総長から浄土真宗に関わる3枚が外されたのです。予想もしない被害者になり、1ヶ月は何もできず、悶々としていました。仲間たちの助けがあり、その事件を公にすることができました。それでも、わたしは前に進むことができず、この事件の経緯を本に書こうとしました。活字にすることで、真実を知ってもらい、わたしの総括をしたいと考えたからです。ちょうどよい機会なので、日頃から考えている「親鸞とジェンダー」にまつわる問題提起もしようと思いました。その本ができたのも、『いつまでも続く「女人禁制」と同時期になりました。『仏教における女性差別を考えるー親鸞とジェンダー』(あけび書房、2020年2月14日)です。2月14日は、この事件をわたしが公にした忘れられない日です。

 本の出版が二冊できたことによって、出版記念シンポジウムを二冊の本についてやろうということになり、実行委員会をつくりました。話をしてくれた友人とわたしの二人の実行委員会です。東京は3月1日にできました。コロナがまだそんなにひどくなる前だったのでできたのです。しかし、4月11日、6月21日の宝塚、奈良でのシンポジウムは延期になってしまいました。
 7月11日、宝塚でシンポジウムを開くことができました。東京はすごく大きな赤字になったので、それを取り返すべく宝塚、奈良のシンポジウムです。
 宝塚のシンポジウムは、中川宝塚市長、佐々木基文高野山の人権局長の宝塚在住のおふたりのシンポジストのおかげで、多くの参加があり、楽しい会になりました。赤字解消に貢献できました。そして、本もな何冊か売れました。とくにわたしの本は、大枚を出して出版をしてもらったので、売らねばなりません。家に段ボール箱が山積みです。いつになったら、段ボールの箱が減るのでしょう。

 具体的な内容については、次回のブログで書きたいと思います。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

各地の豪雨被害

2020-07-08 15:36:42 | 日記
 各地の豪雨の被害がニュースで流れます。あまりにもひどく、ことばになりません。一瞬にして人生が変わり、なかには多くの人が亡くなってしまいました。自宅が残った人は、後片付けをしながら、前向きのインタビューに答えています。
 前向きにこたえられる人や他の人のことを心配できる人の姿は、もう画面で見るのがしんどくなってしまいます。
 こうした災害に遭ったことがないから、なんともいえませんが、すぐに行動できるのは、すごいとしかいいようがありません。
 阪神淡路段震災の時、ジャーナリストだったつれあいが、すぐにオートバイを借りて、現地に行きました。自動車では行けないことを察知したからです。
 そのとき、「実際に見ていったほうがよい」といったのです。1月17日が当日だったので、その3~4日後だったと思います。ひとりで行くのは、大変だから友人を誘っていきました。実際に現場を見て、何もできない自分がいました。ほんとうに見てきただけです。体育館に避難している人に声をかけたのですが、どのような声をかけたか覚えていません。友人も同じでした。ボランティアということばもなく、体育館で何かをしようにも何をしてよいかも分かりませんでした。
 その年が「ボランティア元年」といわれました。

 今年の被害にボランティアの人も行きにくいと思います。コロナ禍があります。どうして災害に遭う人と会わない人がいるのかと、いつも思います。同じ災害地でも助かる人とそうでない人、家が残った人とそうでない人など。異なる人が必ず出てきます。身近な人だからこそ、この違いは現地の人がもっともよく分かると思います。どう接していくのでしょう。
 難しい問題だと思ってしまいます。

 災害に遭っていないわたしがいろいろ書いてもむなしい気がします。
 わたしができることは何かを考えたほうが前向きなのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする