この前の続きになりますが、「業論」の悪いところは、祟り信仰につながるからです。現世利益(げんぜりやく)信仰といってもいいです。この世において、いい結果を得たいという信仰です。多かれ少なかれ、すべての人が幸せにこの世を暮らしたいと願っています。わたしも例外ではありません。幸せの内容が人それぞれ違いがあるでしょう。しかし、その違いはあっても、それを追究する姿勢には、これまた違いが出てきます。
現世利益信仰とは、その人が考える幸せを求めるのを自己の力にも頼るのでしょうが、カミに頼ることなのです。日本の宗教が流行るのは、そういう人が多い証だと思います。例えば、受験です。合格したいとどの人も思っているから、受験勉強という、くだらないと思っていてもやるのですが、わたしのまわりで聞いた話で驚いたのは、大阪府や兵庫県の人が、京都の北野天満宮まで行ったというのです。「受験生はお参りするもの」のという慣習をあたりまえとしているからだと思います。自分から行ったという人もおれば、親が行けといったからという人もいます。学校で習うことではありません。どこまで信じているのかは、本人もあやふやです。だけど、ここが肝心なのですが、「お参りしたから、何となく安心」という感覚があったそうです。合格する保証とかは思わないというのです。でも「安心感」はあるのです。学問の神という天満宮が栄えるわけです。「安心感」を買いに行くのです。
そういうしきたりや慣習となっているカミ信仰をあたりまえにしていることを、完全に否定した人がいます。親鸞です。「神祇不拝」という思想です。
子どものころは、父が押しつける「神社の祭りに行ってはいけない」「ひな祭りはしない」「七夕はしない」「厄よけなんてとんでもない」などのカミにかかわることを一切しないことに情けない思いをしたものです。友だちが神社の祭りに行くのを恨めしく思ったものです。
しかし、親鸞の思想を学ぶなかで、親鸞のすごさを感じ取っていきました。カミ頼みをしないことは、この日本で生きるのは、あんがい難しいことだとわかったからです。子どものころの恨めしさが、自分の思想として確立していったと思っています。人間は弱いから、しきたりや慣習として家族がやってきたことは、やり続けなければ安心できないという感覚は当然のように身につくのです。それを否定していくのは、之までにつくられたしきたりや慣習をもう一度見直すことなのです。それは、ものすごくむずかしいことだと、講座などで話し合いになると、実感します。まして、ジェンダーの視点からしきたりや慣習を見直すことは、さらに難しいのです。
この間も紛糾したのが、焼香の順です。父が亡くなり母が喪主となって子どもの焼香順をどう考えるか、問題提起しました。長女、長男、次男、次女の順に生まれたきょうだいの焼香は、「だれが一番先ですか」と問うたら、みんなといっても過言ではないほど、「長男」と回答がありました。ジェンダーの視点からいうと、生まれた順がもっとも妥当だと思います。イギリスの国王は、生まれた順に決めるとなりました。長男が先というのは、家制度の名残です。きちんとしたしきたりがつくられ、長男が家・家督・祭祀権を継ぐとされたのを、今なおわたしたちの意識下に潜んでいるのです。それが、実際の通夜・葬儀のときに出てきて、変革が思うように進まないのです。ジェンダーの視点でしきたりや慣習を見直すことがいかに大変かを示しています。
現世利益信仰とは、その人が考える幸せを求めるのを自己の力にも頼るのでしょうが、カミに頼ることなのです。日本の宗教が流行るのは、そういう人が多い証だと思います。例えば、受験です。合格したいとどの人も思っているから、受験勉強という、くだらないと思っていてもやるのですが、わたしのまわりで聞いた話で驚いたのは、大阪府や兵庫県の人が、京都の北野天満宮まで行ったというのです。「受験生はお参りするもの」のという慣習をあたりまえとしているからだと思います。自分から行ったという人もおれば、親が行けといったからという人もいます。学校で習うことではありません。どこまで信じているのかは、本人もあやふやです。だけど、ここが肝心なのですが、「お参りしたから、何となく安心」という感覚があったそうです。合格する保証とかは思わないというのです。でも「安心感」はあるのです。学問の神という天満宮が栄えるわけです。「安心感」を買いに行くのです。
そういうしきたりや慣習となっているカミ信仰をあたりまえにしていることを、完全に否定した人がいます。親鸞です。「神祇不拝」という思想です。
子どものころは、父が押しつける「神社の祭りに行ってはいけない」「ひな祭りはしない」「七夕はしない」「厄よけなんてとんでもない」などのカミにかかわることを一切しないことに情けない思いをしたものです。友だちが神社の祭りに行くのを恨めしく思ったものです。
しかし、親鸞の思想を学ぶなかで、親鸞のすごさを感じ取っていきました。カミ頼みをしないことは、この日本で生きるのは、あんがい難しいことだとわかったからです。子どものころの恨めしさが、自分の思想として確立していったと思っています。人間は弱いから、しきたりや慣習として家族がやってきたことは、やり続けなければ安心できないという感覚は当然のように身につくのです。それを否定していくのは、之までにつくられたしきたりや慣習をもう一度見直すことなのです。それは、ものすごくむずかしいことだと、講座などで話し合いになると、実感します。まして、ジェンダーの視点からしきたりや慣習を見直すことは、さらに難しいのです。
この間も紛糾したのが、焼香の順です。父が亡くなり母が喪主となって子どもの焼香順をどう考えるか、問題提起しました。長女、長男、次男、次女の順に生まれたきょうだいの焼香は、「だれが一番先ですか」と問うたら、みんなといっても過言ではないほど、「長男」と回答がありました。ジェンダーの視点からいうと、生まれた順がもっとも妥当だと思います。イギリスの国王は、生まれた順に決めるとなりました。長男が先というのは、家制度の名残です。きちんとしたしきたりがつくられ、長男が家・家督・祭祀権を継ぐとされたのを、今なおわたしたちの意識下に潜んでいるのです。それが、実際の通夜・葬儀のときに出てきて、変革が思うように進まないのです。ジェンダーの視点でしきたりや慣習を見直すことがいかに大変かを示しています。