島田裕巳著『捨てられる宗教ー葬式・墓・戒名を捨てた日本人の末路』(SB新書、2020年9月)を読みました。島田裕巳は、『葬式は、要らない』(BS新書)が2010年に刊行され、ベストセラーになった人です。今月の「朝日新聞」(10月10日朝刊)の書評欄に、わたしの尊敬する柄谷行人が『捨てられる宗教』の書評を書いていたせいもありますが、一度は読みたいと思っていました。こんな早い時期が来るとは思いませんでしたが、たまたま電車に乗るとき、いつも読む本を鞄に入れるのに、忘れていました。ちょっとした長距離の電車に乗るのが久しぶりだったということも影響しています。もちろんコロナのせいで、講座が延期や中止になったからです。
何年ぶりという京阪丹波橋で乗ることで思い出したのが、構内にある書店です。時間があるので、書店に入り、新書コーナーで一番先に目についたのです。躊躇することなく買い、電車のなかで読み始めました。
帰りの電車でも読みましたが、読み終えることはできず、明くる日には読んでしまいました。1冊の本を読んだ後の感想はそれぞれの本によって違いますが、わたしは書き手を知っていたら、必ず読後感を送ります。まして贈られた本は必ず読み送ります。今月は2冊の本の読後感を送りました。彦坂諦著『ある愛国少年の転生』(柘植書房新社)と菱木政晴著『平和と平等の浄土論』(白澤社)です。前者は大著です。400頁を超える彦坂さん自身の少年の大連残留を現在の自分からみて書いたものですから、「転生」が意味がある著でした。菱木さんの本は、教学を書いているのですが、伝統教学をひとくくりにするのではなく、近世のいわゆる伝統教学といわれたなかにもそうではない人がいとことを証明する内容でした。2冊とも手応えのある、読むのが楽しみという本でした。
それに対して、『捨てられる宗教』は、島田節といいましょうか、売れる本を書く人はこういう書き方になるのだと思う書き方なのです。知識のひけらかしという意味が当たっていると思いますが、それはそれは、幅広くよく知っている人だと思います。柄谷行人が書評で書いていたことを紹介します。
「死生観A」と「死生観B」を掲げるのです。前者は平均寿命が短い時代にいつまで生きられるかわからないから人は不安になり、死後に期待を持たせる死生観であるから宗教が求められたのです。後者は、現代のように平均寿命が長くなり、「人生100年」「人生110年」といわれるときには、共同体が強くなく他者に無関心になる時代には、定年後が長すぎる時代には宗教を求めない、という考え方を披瀝しています。宗教に代わるスピリチュアリズムや自己啓発がはやるが、これは宗教とはいえない個人主義的なものであるというのです。
「死生観」が変わってしまった現代において、宗教は「捨てられる」という衰退度が非常に早い勢いであることを示しています。伝統宗教であれ、新宗教であれ、いずれにしろイスラム教を除いては衰退しているというのです。その証拠に挙げるのは、様々な宗教人口のパーセンテージを示していきます。
実際、島田の本の指摘通りだと了解します。葬式はなるべく簡素にしたいし、墓を要らないという人が増えたし、コロナのせいで、直葬でもかまわないとなれば、宗教による葬送を行わない人が増えていることは確かです。その根底に「死生観」の変化を指摘したのは、さすがです。新しい発見があると、すぐ日本に著すことができる人のすごさです。売れる本を書く人のすごさでもあるのでしょう。別の言い方をすれば、時流にちょっと先取りができる人です。
実際に葬式をしなくてもかまわないという意識は、「死生観」の変化もいえるでしょうが、もう一つは、経済が大きいと思います。葬送に多くのお金をかけたくない現実主義が影響していると思います。「死生観」の変化も経済的な理由も、わたしは簡素化される、宗教が捨てられることには批判的ではありません。無駄だと思うお金は使わなければよいし、他に使うべきところを必要とする社会であれば、よいと思います。経済は、貧困と結びついているので、貧困がなくなる、貧困を是正する政策が行われなければならないと思います。貧困をなくすためにどうしたらよいかを政治家を始め、自分にできることを考えなければならないと思います。
今朝の「朝日新聞」にキャンベルさんが語っていましたが、日本の子どもが貧困であるというが、目に見えない、もっと見えるようにしなければならないといっています。隠すのは、恥ずかしいと思うからです。それは、世間体とか日本社会がつくってきたのです。貧困が恥ずかしくないという意識をつくるにはどうしたらよいのでしょうか。
何年ぶりという京阪丹波橋で乗ることで思い出したのが、構内にある書店です。時間があるので、書店に入り、新書コーナーで一番先に目についたのです。躊躇することなく買い、電車のなかで読み始めました。
帰りの電車でも読みましたが、読み終えることはできず、明くる日には読んでしまいました。1冊の本を読んだ後の感想はそれぞれの本によって違いますが、わたしは書き手を知っていたら、必ず読後感を送ります。まして贈られた本は必ず読み送ります。今月は2冊の本の読後感を送りました。彦坂諦著『ある愛国少年の転生』(柘植書房新社)と菱木政晴著『平和と平等の浄土論』(白澤社)です。前者は大著です。400頁を超える彦坂さん自身の少年の大連残留を現在の自分からみて書いたものですから、「転生」が意味がある著でした。菱木さんの本は、教学を書いているのですが、伝統教学をひとくくりにするのではなく、近世のいわゆる伝統教学といわれたなかにもそうではない人がいとことを証明する内容でした。2冊とも手応えのある、読むのが楽しみという本でした。
それに対して、『捨てられる宗教』は、島田節といいましょうか、売れる本を書く人はこういう書き方になるのだと思う書き方なのです。知識のひけらかしという意味が当たっていると思いますが、それはそれは、幅広くよく知っている人だと思います。柄谷行人が書評で書いていたことを紹介します。
「死生観A」と「死生観B」を掲げるのです。前者は平均寿命が短い時代にいつまで生きられるかわからないから人は不安になり、死後に期待を持たせる死生観であるから宗教が求められたのです。後者は、現代のように平均寿命が長くなり、「人生100年」「人生110年」といわれるときには、共同体が強くなく他者に無関心になる時代には、定年後が長すぎる時代には宗教を求めない、という考え方を披瀝しています。宗教に代わるスピリチュアリズムや自己啓発がはやるが、これは宗教とはいえない個人主義的なものであるというのです。
「死生観」が変わってしまった現代において、宗教は「捨てられる」という衰退度が非常に早い勢いであることを示しています。伝統宗教であれ、新宗教であれ、いずれにしろイスラム教を除いては衰退しているというのです。その証拠に挙げるのは、様々な宗教人口のパーセンテージを示していきます。
実際、島田の本の指摘通りだと了解します。葬式はなるべく簡素にしたいし、墓を要らないという人が増えたし、コロナのせいで、直葬でもかまわないとなれば、宗教による葬送を行わない人が増えていることは確かです。その根底に「死生観」の変化を指摘したのは、さすがです。新しい発見があると、すぐ日本に著すことができる人のすごさです。売れる本を書く人のすごさでもあるのでしょう。別の言い方をすれば、時流にちょっと先取りができる人です。
実際に葬式をしなくてもかまわないという意識は、「死生観」の変化もいえるでしょうが、もう一つは、経済が大きいと思います。葬送に多くのお金をかけたくない現実主義が影響していると思います。「死生観」の変化も経済的な理由も、わたしは簡素化される、宗教が捨てられることには批判的ではありません。無駄だと思うお金は使わなければよいし、他に使うべきところを必要とする社会であれば、よいと思います。経済は、貧困と結びついているので、貧困がなくなる、貧困を是正する政策が行われなければならないと思います。貧困をなくすためにどうしたらよいかを政治家を始め、自分にできることを考えなければならないと思います。
今朝の「朝日新聞」にキャンベルさんが語っていましたが、日本の子どもが貧困であるというが、目に見えない、もっと見えるようにしなければならないといっています。隠すのは、恥ずかしいと思うからです。それは、世間体とか日本社会がつくってきたのです。貧困が恥ずかしくないという意識をつくるにはどうしたらよいのでしょうか。