自分らしいお葬式やお墓を考えましょう。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

日本仏教とジェンダー

2022-11-28 11:36:59 | 日記
先月から載せている「日本仏教とジェンダー」の続きを掲載します。
初めて読む方がいらっしゃると思いますので、最初から載せます。

ーーーーー
日本の仏教とジェンダー
 ―ジェンダー不平等な家制度的なものに支えられる日本の仏教

                             源 淳子
はじめに
 日本で新型コロナウィルスの報道が始まったのは、2019年12月31日からである。その後、2020年1月から報道の量が多くなる。クルーズ船から感染者が出たこと、同年2月にクルーズ船から乗客が横浜港で下船できなかったこと、その後下船した乗客から感染者が出たこと、店頭にマスクがなくなったことなどが報道された。国内初の感染者は1月16日の発表だった。
 それ以後、感染者は増えたが、もっとも衝撃的なニュースであり、連日その報道が繰り返されたのは、日本のコメディアンを代表する志村けんさんの新型コロナウィルスによる死亡だった。3月29日のことである。その衝撃の理由は、彼が有名な現役の芸人であり、70歳という年齢もさることながら、彼の死の直前も直後も身近な人が傍らにいることを許されなかったことである。コロナで亡くなる人の前後の状況が一変した。入院先の病院へ見舞うこともできない、遺体に触れることさえ許されなかった。荼毘に付すとき、棺に記念のものを入れるとか花を添えることも許されず、火葬場にも参列できず、親族は遺骨を受け取るだけだった。それも直接の手渡しではないことも衝撃的だった。彼の死は、日本中の人々に新型コロナウィルスによる死がそれまでの死とは異なることを知らせた。
 新型コロナウィルスによる死は、その前後の状況を一変させた。それとともに、新型コロナウィルス患者への差別が顕わになり、「感染する」ことが差別を生み出した。感染者となった人が自死したり、住む場所を追われたりした。
 また、新型コロナウィルスによって葬儀のかたちが変化し、密を避けるため多くの人の参列が不可能になった。志村けんさんの葬儀が身内だけで行われたことは考えられなかった。しかし、新型コロナウィルスそのものが個々人にとって身近なものにはならなかった。東村山市出身の彼の生地には、毎日献花が途切れなかったが、自分ごとではなかった。それは、志村けんさんが遠いテレビの側の人だからだ。
コロナ感染が自分ごととして受け取られるようになるのは、4回目のワクチンを打つ時期になった2022年6月以降と考えてよいだろう。身近な人が感染するようになってきたからである。 
 コロナの影響で、自宅、病院、介護施設などのどこで亡くなっても、また、コロナ感染の死ではなくても、葬儀のかたちは大幅に変わった。日本人の葬儀の多くを担ってきた仏教の儀礼のあり方にも変化がみられた。コロナ感染での死では死者から感染しないことが分かっても、葬儀の参列者は火葬場への参列の人数も制限された。なかには通夜をしないで一日葬とするケースも出てきた。葬儀社のコマーシャルも変わった。「小さなお葬式」「寄り添うお葬式」の文言が流されるようになった。
 変わっていないのは、葬儀社が葬儀を仕切り、僧侶が読経する形式である。仏教が「葬式仏教」といわれてきたかたちは、わたしが知る限りではそのままである。つまり、檀信徒が僧侶に依頼して行う葬儀であることは変わっていない。
 それは、日本にある檀家制度が変わらないことであり、その背景にある家制度的なものが変わっていないことを意味する。このことは、この論文の目的であるジェンダー平等を阻害している日本の仏教を論究することになると確信する。

(1)檀家制度と家制度
幕藩体制と寺請制度
日本の仏教の特徴の一つに檀家制度がある。檀家制度は、6世紀に仏教が伝来した当初には存在していない。奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教などといわれる時代には檀家制度はなかった。仏教徒となり、宗派の開祖(良弁、鑑真、最澄、空海、法然、日蓮、道元、親鸞など)となった人もいるが、多くの信徒は、個人の宗教として仏教を選んでいた。
 檀家制度は、近世の江戸幕府(1603~1867年)の時代につくられた。檀家制度ができる前に幕府が行ったのは、キリシタン禁制である。幕府は当初からキリスト教を排除しようとしたわけではなかった。しかし、キリスト教の布教が活発化することにより、キリシタン大名も出てきて、幕府の支配体制に影響を及ぼすことになり、幕府はキリスト教を受け入れることができなくなった。
 1609(慶長14)年、マードレ・デ・デウス号の事件がおこった。それは、有馬晴信(肥前国、今の佐賀県の大名)の朱印船がポルトガル領マカオに寄港した際、酒場で船員と乱闘事件をおこし、水夫60名が殺害されて、積荷まで略奪され、その報復として有馬晴信が長崎に寄港したマードレ・デ゙・デウス号を沈没させたという事件だったが、その処理を巡って、有馬晴信と岡本大八(江戸幕府の老中本多正純の家臣)のしゆう収わい賄事件が発覚した。二人がキリシタンであったことから、幕府は1619(元和5)年、キリスト教を禁教とした。いわゆるキリシタン禁制である。
 さらに、幕府がキリシタン禁制を本格化し、強化するきっかけとなったのは、1637年から4ヶ月間続いた島原の乱だった。島原の乱とは、肥前国(長崎県)島原半島と肥後国(熊本県)天草島の百姓がおこした一揆である。藩主の年貢の取りたての厳しさと飢饉によって、百姓一揆がおきた。結果として幕府軍が鎮圧し、生き残った一揆側の者はすべて斬首された。その百姓たちがキリシタンだったことが、幕府のキリシタン禁制の強化につながった。
 それ以前に、豊臣秀吉が1597(慶長2)年、百姓の精神的呪縛の強化、治安維持のために下級武士の五人組、百姓の五人組を組織していた。五人組とは、近隣の五戸を一組としてつくった隣保組織であり、連帯責任を負わせる仕組みである。相互監視と相互扶助のシステムである。相互監視は、幕府に背かない効果をもった。例えば、一戸がキリシタンであれば、通報されれば仲間はずれ(村八分)になる。一方、相互扶助は、農作業の協力や葬式を助け合うなどの面をもっていた。
 1638(寛永15)年、幕府は、ぼ菩だい提じ寺(葬式を行ってもらう寺)によってキリシタンではないことを保証するてら寺うけ請しよう証もん文を義務づけた。これが寺請制度である。寺請証文がないとキリシタンだと疑われ、藩により取り調べを受け、投獄され、放免されることはほとんどなかった。死刑もあり、たとえ死刑を免れても何十年という長い年月を牢獄に閉じ込められた。だからそのまま牢死した場合が多い。まさにキリシタンであることへの「みせしめ」であった。
 1665(寛文5)年、幕府はじ寺いん院はつ法と度を出した。仏教の諸宗派・寺院・僧侶の統制を目的とし、本寺・末寺関係の編成や寺請制度などを通して宗派及び寺院を統制した。1620年代に始まり、1630年代には全国に広がっている。寺請制度は檀家制度の成立につながるが、寺請制度と檀家制度は異なることに注意してほしい。
 寺請制度が整備されたあと、宗門人別帳が作成された。宗門人別帳には、本国・生国・年齢・続柄・名前・旦那寺(または菩提寺)・宗派・所在場所が記入される。寺が檀家を掌握し、旦那寺から離れることができないことは、個人の信仰の自由を奪った。生まれた家によって将来の葬式をしてもらう寺が決まるのである。ただ、女性は結婚して他家に嫁ぐので、嫁ぎ先の寺が旦那寺になり、それもまた、個人の信仰の自由を奪うことになった。宗門人別帳は、まさに戸籍台帳の役割を果たした。宗門人別帳は初期には個人単位であったが、家族単位に移行し(1660~70年代)、さらに100年も経つと、五人組単位に移行している。その上、簡略化され、年齢・名前・宗派・旦那寺が記載される程度になった。それは、五人組が同じ宗派であり、同じ菩提寺であることを示した。
 1639(寛永15)年、幕府はすでに何度か発令していた「鎖国令」を改めて出し、鎖国をほぼ完璧なものとした。鎖国について、「政治的な面では布教を手段とする旧教国の領土的野心よりの恐怖」であり、「経済的な面では、もっとも重要な商品である米を年貢として、最大限に徴収し、農民を商品経済から遮断し、さらに彼等の自給的な経営を確立させようとする」(1)幕藩体制を強化するためのものだったことが分かる。寺請制度、檀家制度を整備し、鎖国により国を閉ざし、幕藩体制は内なる権力体制を強化したのである。
 檀家制度は、本末制度を成り立たせた。本末制度とは、本寺(本山)の下に末寺が位置する関係である。本寺の上に幕府があるから、幕府―本寺(本山)―末寺―檀家という明確なヒエラルキーができあがった。幕府が宗教(仏教)を手中に収めることで権力の強化を図ったと同時に、仏教は幕藩体制の庇護のもと「個」の確立を阻む家の宗教に成り下がった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする