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日本仏教とジェンダー

2023-07-28 10:35:54 | 日記
「日本仏教とジェンダー」の10回目です。来月で終わります。

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日本の仏教とジェンダー
 ―ジェンダー不平等な家制度的なものに支えられる日本の仏教

                             源 淳子
はじめに
 日本で新型コロナウィルスの報道が始まったのは、2019年12月31日からである。その後、2020年1月から報道の量が多くなる。クルーズ船から感染者が出たこと、同年2月にクルーズ船から乗客が横浜港で下船できなかったこと、その後下船した乗客から感染者が出たこと、店頭にマスクがなくなったことなどが報道された。国内初の感染者は1月16日の発表だった。
 それ以後、感染者は増えたが、もっとも衝撃的なニュースであり、連日その報道が繰り返されたのは、日本のコメディアンを代表する志村けんさんの新型コロナウィルスによる死亡だった。3月29日のことである。その衝撃の理由は、彼が有名な現役の芸人であり、70歳という年齢もさることながら、彼の死の直前も直後も身近な人が傍らにいることを許されなかったことである。コロナで亡くなる人の前後の状況が一変した。入院先の病院へ見舞うこともできない、遺体に触れることさえ許されなかった。荼毘に付すとき、棺に記念のものを入れるとか花を添えることも許されず、火葬場にも参列できず、親族は遺骨を受け取るだけだった。それも直接の手渡しではないことも衝撃的だった。彼の死は、日本中の人々に新型コロナウィルスによる死がそれまでの死とは異なることを知らせた。
 新型コロナウィルスによる死は、その前後の状況を一変させた。それとともに、新型コロナウィルス患者への差別が顕わになり、「感染する」ことが差別を生み出した。感染者となった人が自死したり、住む場所を追われたりした。
 また、新型コロナウィルスによって葬儀のかたちが変化し、密を避けるため多くの人の参列が不可能になった。志村けんさんの葬儀が身内だけで行われたことは考えられなかった。しかし、新型コロナウィルスそのものが個々人にとって身近なものにはならなかった。東村山市出身の彼の生地には、毎日献花が途切れなかったが、自分ごとではなかった。それは、志村けんさんが遠いテレビの側の人だからだ。
コロナ感染が自分ごととして受け取られるようになるのは、4回目のワクチンを打つ時期になった2022年6月以降と考えてよいだろう。身近な人が感染するようになってきたからである。 
 コロナの影響で、自宅、病院、介護施設などのどこで亡くなっても、また、コロナ感染の死ではなくても、葬儀のかたちは大幅に変わった。日本人の葬儀の多くを担ってきた仏教の儀礼のあり方にも変化がみられた。コロナ感染での死では死者から感染しないことが分かっても、葬儀の参列者は火葬場への参列の人数も制限された。なかには通夜をしないで一日葬とするケースも出てきた。葬儀社のコマーシャルも変わった。「小さなお葬式」「寄り添うお葬式」の文言が流されるようになった。
 変わっていないのは、葬儀社が葬儀を仕切り、僧侶が読経する形式である。仏教が「葬式仏教」といわれてきたかたちは、わたしが知る限りではそのままである。つまり、檀信徒が僧侶に依頼して行う葬儀であることは変わっていない。
 それは、日本にある檀家制度が変わらないことであり、その背景にある家制度的なものが変わっていないことを意味する。このことは、この論文の目的であるジェンダー平等を阻害している日本の仏教を論究することになると確信する。

 わたしのこれまでの研究は、「鰯の頭も信心から」ではない信心を得るための勉強から始まり、研究者になる気持ちはなかった。しかし、大学院で教わらない女性と仏教に関心をもちながら、経典を読んでいるときに出会った二つのことばが、わたしを研究者の道へ導いた。「女人五障」と「変成男子」である。仏教のなかに女性差別があることを知り、公にしていかねばならないと決意したのだ。後に、出逢った指導教官の信心を求める姿に圧倒され、わたしは信心を求めることを諦めた。その代わり、フェミニズムを支柱にして生きることを決めた。
 仏教の女性差別を明らかにした最初の著書は大越愛子、山下明子とともに著した『性差別する仏教―フェミニズムからの告発』(法藏館、1990年)だった。仏教の性差別を明らかにしたので、その反発があるだろうと、学会からの質問に答えるため、3人は考えられる限りの質問を想定し回答を用意した。しかし、何の反応もなく、もっとも手痛い仕打ちである「無視」だった。
 わたしは学会発表や執筆を続けた。忘れもしない思い出は数多くあるが、珍しく頭が真っ白になった体験は、印度学佛教学会で、「親鸞の女性観」を発表したときである。仏教の女人五障が問題であり、親鸞もその女人五障を歌に詠んでいる内容だった。15分の発表のあと質疑応答だが、著名な教授が挙手をした。何を質問されるか心配していたら、「源さん、仏教はそんなことはいっていません。一から勉強し直してください」という発言に、わたしは予想もしなかったので、何も考えられなくなった。
 仏教の女性差別を発表することで、反論があったのは、「釈迦の仏教」「ほんとうの仏教」では女性差別はないといういい方だった。しかも、わたしを名指せず、「フェミニストの方々が問題にされているのは」といういい方だった。
 仏教の女性差別を著した著書(論文は省略)は、『日本的セクシュアリティ』(共著、法藏館、1991年)、『解体する仏教』(共著、大東出版社、1994年)、『仏教と性』(三一書房、1996年)、『フェミニズムが問う仏教』(三一書房、1996年)、『仏教における女性差別を考える―親鸞とジェンダー』(あけび書房、2020年)である。
 以下、論文を省き著書のみをわたしの関心事とあわせて紹介したい。
その後、仏教の問題にとどまらないで、日本の宗教の女性差別に関心をもった。山や土俵上における「女人禁制」である。『「女人禁制」Q&A』(編著、解放出版社、2005年)、『現代の「女人禁制」―性差別の根源を探る』(「大峰山女人禁制」の開放を求める会編、解放出版社、2011年)、『いつまで続く「女人禁制」』(編著、解放出版社、2020年)を著した。「女人禁制」を現在でもしている奈良県の「大峰山」(正式には山上ヶ岳)に対しては、「大峰山女人禁制」の開放を求める会をつくり、奈良県の有志と開放を求める市民活動を続けている。2023年で20年になるが、「大峰山」は開放されていない。
 さらに、日本人の「個」の確立ができていない問題も視野に入ってきた。それは、次章で述べる檀家制度も関係しているが、天皇制が大いに関係していると考え、近代天皇制に関心をもった。近代を学ぶことは、戦前の軍国主義を支えた思想や宗教の問題に拡大した。『フェミニズムが問う王権と仏教』(三一書房、1998年)、『「母」たちの戦争と平和―戦争を知らないわたしとあなたに』(三一書房、2008年)に著した。

(1)檀家制度と家制度
幕藩体制と寺請制度
日本の仏教の特徴の一つに檀家制度がある。檀家制度は、6世紀に仏教が伝来した当初には存在していない。奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教などといわれる時代には檀家制度はなかった。仏教徒となり、宗派の開祖(良弁、鑑真、最澄、空海、法然、日蓮、道元、親鸞など)となった人もいるが、多くの信徒は、個人の宗教として仏教を選んでいた。
 檀家制度は、近世の江戸幕府(1603~1867年)の時代につくられた。檀家制度ができる前に幕府が行ったのは、キリシタン禁制である。幕府は当初からキリスト教を排除しようとしたわけではなかった。しかし、キリスト教の布教が活発化することにより、キリシタン大名も出てきて、幕府の支配体制に影響を及ぼすことになり、幕府はキリスト教を受け入れることができなくなった。
 1609(慶長14)年、マードレ・デ・デウス号の事件がおこった。それは、有馬晴信(肥前国、今の佐賀県の大名)の朱印船がポルトガル領マカオに寄港した際、酒場で船員と乱闘事件をおこし、水夫60名が殺害されて、積荷まで略奪され、その報復として有馬晴信が長崎に寄港したマードレ・デ゙・デウス号を沈没させたという事件だったが、その処理を巡って、有馬晴信と岡本大八(江戸幕府の老中本多正純の家臣)のしゆう収わい賄事件が発覚した。二人がキリシタンであったことから、幕府は1619(元和5)年、キリスト教を禁教とした。いわゆるキリシタン禁制である。
 さらに、幕府がキリシタン禁制を本格化し、強化するきっかけとなったのは、1637年から4ヶ月間続いた島原の乱だった。島原の乱とは、肥前国(長崎県)島原半島と肥後国(熊本県)天草島の百姓がおこした一揆である。藩主の年貢の取りたての厳しさと飢饉によって、百姓一揆がおきた。結果として幕府軍が鎮圧し、生き残った一揆側の者はすべて斬首された。その百姓たちがキリシタンだったことが、幕府のキリシタン禁制の強化につながった。
 それ以前に、豊臣秀吉が1597(慶長2)年、百姓の精神的呪縛の強化、治安維持のために下級武士の五人組、百姓の五人組を組織していた。五人組とは、近隣の五戸を一組としてつくった隣保組織であり、連帯責任を負わせる仕組みである。相互監視と相互扶助のシステムである。相互監視は、幕府に背かない効果をもった。例えば、一戸がキリシタンであれば、通報されれば仲間はずれ(村八分)になる。一方、相互扶助は、農作業の協力や葬式を助け合うなどの面をもっていた。
 1638(寛永15)年、幕府は、ぼ菩だい提じ寺(葬式を行ってもらう寺)によってキリシタンではないことを保証するてら寺うけ請しよう証もん文を義務づけた。これが寺請制度である。寺請証文がないとキリシタンだと疑われ、藩により取り調べを受け、投獄され、放免されることはほとんどなかった。死刑もあり、たとえ死刑を免れても何十年という長い年月を牢獄に閉じ込められた。だからそのまま牢死した場合が多い。まさにキリシタンであることへの「みせしめ」であった。
 1665(寛文5)年、幕府はじ寺いん院はつ法と度を出した。仏教の諸宗派・寺院・僧侶の統制を目的とし、本寺・末寺関係の編成や寺請制度などを通して宗派及び寺院を統制した。1620年代に始まり、1630年代には全国に広がっている。寺請制度は檀家制度の成立につながるが、寺請制度と檀家制度は異なることに注意してほしい。
 寺請制度が整備されたあと、宗門人別帳が作成された。宗門人別帳には、本国・生国・年齢・続柄・名前・旦那寺(または菩提寺)・宗派・所在場所が記入される。寺が檀家を掌握し、旦那寺から離れることができないことは、個人の信仰の自由を奪った。生まれた家によって将来の葬式をしてもらう寺が決まるのである。ただ、女性は結婚して他家に嫁ぐので、嫁ぎ先の寺が旦那寺になり、それもまた、個人の信仰の自由を奪うことになった。宗門人別帳は、まさに戸籍台帳の役割を果たした。宗門人別帳は初期には個人単位であったが、家族単位に移行し(1660~70年代)、さらに100年も経つと、五人組単位に移行している。その上、簡略化され、年齢・名前・宗派・旦那寺が記載される程度になった。それは、五人組が同じ宗派であり、同じ菩提寺であることを示した。
 1639(寛永15)年、幕府はすでに何度か発令していた「鎖国令」を改めて出し、鎖国をほぼ完璧なものとした。鎖国について、「政治的な面では布教を手段とする旧教国の領土的野心よりの恐怖」であり、「経済的な面では、もっとも重要な商品である米を年貢として、最大限に徴収し、農民を商品経済から遮断し、さらに彼等の自給的な経営を確立させようとする」(1)幕藩体制を強化するためのものだったことが分かる。寺請制度、檀家制度を整備し、鎖国により国を閉ざし、幕藩体制は内なる権力体制を強化したのである。
 檀家制度は、本末制度を成り立たせた。本末制度とは、本寺(本山)の下に末寺が位置する関係である。本寺の上に幕府があるから、幕府―本寺(本山)―末寺―檀家という明確なヒエラルキーができあがった。幕府が宗教(仏教)を手中に収めることで権力の強化を図ったと同時に、仏教は幕藩体制の庇護のもと「個」の確立を阻む家の宗教に成り下がった。

檀家制度のなかで説かれた仏教の教え
 幕藩体制下では寺請制度、檀家制度を基礎におき、身分制度も確立した。図の通りの身分制度は、支配するのは武士階級だが、その上に天皇・公家という存在があった。武士が町人と百姓を支配し、その下には売買される奴隷(ぬ奴ひ婢)と遊女がいた。そして、僧侶身分は別格の身分としてあり、天皇も武士も出家することができた。しかし、檀家制度の本末制度下の末寺の僧侶の身分はこの図ほど上の別格扱いではなく、僧侶身分のなかでもヒエラルキーが存在した。それは、武士も町人も百姓も同じだった。水呑(みずのみ)百姓(びゃくしょう)と庄屋が同じ地位にあることはない。
 そして、左側の図に位置するのは「人間」であるが、「人外」として差別されたえた穢多・非人の存在は、過去にいわれた「士農工商穢多非人」という上下関係ではないことが明らかである。穢多・非人のなかにもヒエラルキーがつくられた。
 「人外」とされた穢多・非人は排除される構造をもつが、まったく排除されたわけではない。死人の処理をしたり、天皇の葬儀に遺体を担いだり、牛馬の死体処理をしたりなど、多くのことを担わされ、利用された。
 この図のなかに女性は遊女しか記されていない。しかし、すべての階級に女性は存在していた。ただ、僧侶は男僧と尼僧の住む領域が別だったので、同居はあり得ない。しかし、浄土真宗は僧侶の結婚を許していたので、僧侶は家庭をもっていた。また、出家をたてまえとする他宗派の僧侶が同棲したり、性的な関係をもっていたことは公然の事実として存在していた。



 こうした身分制のなかで檀家制度は成立していた。檀家は、檀那寺に基本的に葬儀・法事をしてもらい、仏教の教えを聴聞することがあった。その内容が身分制と大いに関係していたし、基本的には「ごう業ろん論」が説かれた。
 業論とはさんぜ三世思想を基本としている。ぜん前せ世・げん現せ世・らい来せ世に分け、前世の因が現世の果になり、現世の因が来世の果を決めるのである。例えば、現世に女性として生まれたことは前世に悪いことをしたから女性に生まれたのであり、現世が女性であることはそれが因となって来世は地獄に堕ちる果が待っているという具合である。そこで取り上げられる人々は差別されていた弱者であり、被差別部落民、ハンセン病者(当時癩(らい)者)、障がい者、女性などであった。来世は二つ用意されていて、それは極楽浄土と地獄である。当時「ごしよう後生のいち一だい大じ事」といわれるほど、亡くなったあとの世を大切だと信じていた人々にとって、地獄に堕ちることはあってはならないことだった。現世の身分や性別によってあの世が決定される説教はおかしいが、当時の人々がそれに抗うことはできなかった。
 寺が上位にあるから、業論の論理を説教したのは僧侶である。業論は、地獄に堕ちることを避ける手立ても用意した。つまり、信仰(信心)をもてば、来世は極楽浄土に生まれると説いたのである。そういう人々が寺に集い、僧侶の説教を熱心に聞き、信仰(信心)をもった。女性は、寺に行くことだけは許されたから、楽しみにして寺へ行ったのである。舅・姑・夫に都合のよい話が多いので、嫁を積極的に寺に行かせる家もあった。
 信仰(信心)の話は、つまるところ、女性は罪深いから地獄に堕ちるという内容だった。中国から入ってきて偽経といわれる『血(けつ)盆(ぼん)経(きょう)』は、日本で流布した。女性の月経、出産時の出血を穢れとし、そういう血を流す女性が罪深いと説いた。その経典を分かりやすく和讃にしたのが、『血盆経和讃』である。

   きみよう帰命ちようらい頂礼血盆経    女人あくごう悪業ふかきゆゑ   御説給ふ慈悲のうみ
   渡る苦海のあり様は  月に七日のつきやく月経と    産するときの大悪血
   神や佛をけがすゆゑ  おのづ自と罰をうけるなり  又其悪血が地にふれ觸て
   一度女人と生れては  き貴せん賤上下のへだ隔てなく  皆此地獄に落るなり(後略)(2)   

 女性の業は深くて苦しい世界を生きるのである。月に7日の月経と出産するときの血は大悪血であり、神や仏を穢すから神仏の罰を受け、地獄に堕ちる。「後略」の最後の箇所に、信仰をもてば地獄に堕ちないことを次のように説いている。

血盆経をどく誦して  人にも勧め我もまた  昔も後生を願ひなば
さきだつ立母親姉いもと  数多の女人と諸共に  血の池地獄の苦のが免れ
地蔵菩薩の手引にて  極楽浄土に往じます  常に無情の法を聞く
諸佛菩薩を供養せん  南無や女人の成佛経  南無阿弥陀佛 阿弥陀佛(3)

 『血盆経』を読誦し、後生を願って信仰をもてば、血の池地獄に堕ちることを免れることができ、極楽浄土に往生することが約束されると説く。曹洞宗をはじめ多くの宗派で説かれた『血盆経』信仰である。つまりは、女性の血の穢れが悪の因だと教え、女性が罪深い存在であるから地獄に堕ちると説き、極楽浄土に往生したければ信仰をもて、という教えだったのである。
 他に、『血の池地獄和讃』『うまずめ石女地獄和讃』『女人往生和讃』などがある。
 『うまずめ石女地獄和讃』を少し紹介しよう。

あら恐ろしや石女の  苦み語んやうもなし  あぼうらせつ羅刹の鬼共が
剣のやまに追のぼせ  ひとり獨は西へ行けといひ  獨りは東と行(いけ)といふ(後略)(4)

 「石女」とは、子どもを産めない女性をいう。結婚後子どものできない夫婦に対して、男性が問われることはいっさいなく、一方的に女性のみに罪をきせた。それもまた罪悪として捉えられ、地獄堕ちを説いた。最後は、信仰をもてば地獄に堕ちないと説くパターンは同じである。

 また、浄土真宗では、第八代本願寺門主である蓮如(1415~1499)が書いた『おふみ御文(ご御ぶん文しよう章)』により、多くの信者にその教えが伝播した。

   おおよそ当流の信心をとるべきをもむきはまづわが身は女人なればつみふかき五   障三従とてあさましき身にて すでに十方の如来も三世の諸佛にもすてられたる   女人なりけるを かたじけなくも弥陀如来ひとりかかる機をすくはんとちかひた   まひてすでに四十八願をおこしたまへり そのうち第十八の願におひて一切の悪   人女人をたすけたまへるうへに なお女人はつみふかくうたがひのこころふかき   によりてまたかさねて第三十五の願になお女人をたすけんといへる願をおこした   まへるなり(いずれも現代の仮名づかいにしている)(5)

   女人の身は、ごしよう五障・さんしよう三従とて、おとこにまさりてかかるふかきつみのあるなり    このゆえに一切の女人をば 十方にまします諸仏もわがちからにては女人をばほ   とけになしたまうことさらになし しかるに阿弥陀如来こそ女人をばわれひとり   たすけんという大願をおこしてすくいたまうなり(6)

 このなかに出てくる「五障」とは、たい帝しやく釈てん天・ぼん梵てん天のう王・ま魔おう王・てんりんじようおう転輪聖王・仏の五つをいい、女性はこれになれないという意味である。問題は、五つ目の「仏」である。仏教はすべての人が仏になる教えであると説いてきたが、女性は仏になれないという考えが出てきたのである。わたしが経典をひとりで読んでいて、このことばと次に問題となる「変成(へんじょう)男子(なんし)」に出会ったときの衝撃は、ジェンダーの研究に向かわせた契機となったほど大きかった。
 また、「三従」とは、女性は父・夫・息子に従って生きることを意味する。
 いずれにしても、「五障三従」の女性は浅ましく罪深く救われないので、信心をもって阿弥陀仏に救ってもらうしかないといっている。阿弥陀仏の「第三十五願」とは、「たとい我仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、我が名字を聞きて、歓喜しんぎょう信楽して、菩提心をおこし、女身をいと厭いにく悪まん。いのち寿終えての後、また女の像とならば、しょうがく正覚を取らじ」(『無量寿経』第三十五願)という経典に則り、女性のままでは往生できないので、一度男性に変わって往生するという「へん変じよう成なん男し子」(てん転によ女じよう成なん男)の考え方をいっている。
 つまり、女性は救いがたいほど罪深いので、一度女性から男性に変わることによって往生できるという教えを説いたのである。
 この教えは、浄土真宗の開祖である親鸞(1173~1263)にもあり、次の和讃に詠まれている。

  弥陀の大悲ふかければ
   仏智の不思議をあらはして
  変成男子の願をたて
  女人成仏ちかひたり (親鸞『浄土和讃』大経意)(7)
 
  弥陀のみよう名がん願によらざれば
  百千まん萬ごう劫すぐれども
  いつゝのさはりはなれねば
  女身をいかでか転ずべき (親鸞『高僧和讃』善導大師)(8)

 こうした教えを聴聞した女性が信仰(信心)をもち、どのような気持ちに至るかは想像に難くない。極楽浄土に生まれることを「ありがたい」と感謝したのである。信仰の構造が、わけの分からない前世を因にすることで、有無をいわせないし、どうしようもない過去世を出されたら、僧侶の説くことを信じるしかなかった時代だ。
 そして、信心をもつ人々の感謝は、現実の状況を受け入れることだった。その社会のおかしさ、身分制の問題点などを考える力を奪ったのである。檀家制度によって個人の宗教を選ぶことさえできず、菩提寺を選ぶことさえできなかった人々が「個」の確立を果たせないのは当然のことだった。さらに、女性は結婚によって相手の家の宗教で生きるしかなかった。嫁にいくことは婚家先の宗派に自分をあわすことだった。宗教を選べず、女性だからという理由で来世に地獄が待っているありようは、現実の辛さを信仰(信心)で癒やすしかなかったといえよう。現実的には婚家先のやり方にあわすしかなく、具体的には舅・姑・夫に従うことだった。従順な女性は、舅・姑・夫やせ世けん間(社会)との関係のなかで「飲む(酒)・打つ(ギャンブル)・買う(買(かい)春(しゅん))夫を赦す」妻となったのである。

 女性の側から離婚することはむずかしく、一度嫁にいけばその家が生涯を生きる場所だった。夫から「み三くだり行はん半」を突きつけられれば離縁(離婚)は簡単だった。しかし、わずかだが「縁切り寺」があり、それは「東慶寺」(鎌倉)と「満徳寺」(群馬県)だった。縁切り寺に駆け込み、「縁切寺法」に準じて、3年間(後に2年間)修行すれば、離縁が可能となった。

 近世はまた、儒教も盛んに説かれた時代である。身分の高い人々から伝わってきた教えは、道徳を説くものだった。基本は三従の教えになるが、「女大学」には、具体的に離縁の条件として、子どもが産めない、淫乱なるもの、りんき悋気(嫉妬)の深いもの、悪い病気をもつもの、おしゃべりのものなどが書かれ、女性に説かれていった。
 女性は、一度結婚したら、その家にあう嫁として従順な妻として母として生きる道が示され、女性の「個」の確立ができる環境はつくられなかった。それは、女性だけではなく、身分制の下位に位置する人々も同様であった。下級武士や百姓につくられていた五人組も、「個」の確立を阻むものだった。まして、人外とされた被差別部落の人々にとって「個」の確立など考えも及ばないことだった。

 近世の女性を宗教的な見地からみると、暗くて陰気な感じがして、女性は生き生きと生きていなかったように想像できる。毎日泣いていたわけではない。宗教的に貶められ、差別されても、日常生活においては元気にいたことは間違いがない。ほとんどが百姓という身分が多かったので、子どもを育てながら農業にいそしみ、畑仕事もしていた。その身分に生きること、嫁いだ家になじむ生き方をするのをあたりまえに思っていたことは間違いがない。日常的な喜びはあったし、その上に信仰をもった女性が寺に説法を聞きに行くことも生活を潤していた。しかし、当時の社会にある差別や偏見などに気がつくことはなかったので、社会のあり方をそのまま受け入れていたことも当然であった。

(2)近代の家制度と現代に残った檀家制度
天皇制国家
 近代に入り、つまり幕藩体制崩壊後、近代天皇制国家が構築されていく。まずは、1868(明治元)年、明治政府は神仏習合だった宗教を「神仏分離令」(神仏判然令)を出して一つの宗教にしようとした。それは、国家を支える宗教を外来の宗教ではなく、日本古来の神道に統一することだった。そこから生まれたのが、はい廃ぶつ仏き毀しやく釈である。廃仏により、ひどい痛手を負った寺院も相当あったが、政府にすり寄った仏教教団は生き残ることができた。ただ、1871年、寺請制度はなくなった。建て前として信教の自由を認めることになったので、キリシタン禁制のための寺請制度は必要なくなった。しかし、檀家制度は残った。
 天皇制を確立するために、次から次へ法や制度が定められていった。基本は富国強兵策であり、新たな憲法や民法である。まずは、すべての国民を把握し、軍隊をつくるために必要な戸籍制度の整備を行った。1870(明治3)年、「平民苗字許可令」(平民がみようじ苗字をもつことを許可する)がでる。それまで苗字をもっていない人々がいた。身分の低い人と僧侶だった。出家名で生きるのが、僧侶の基本だったからである。日蓮、法然、道元、親鸞の時代から一休、良寛、沢庵(たくあん)、円空、いん隠げん元など近世の僧侶も基本は出家名で生きていた。しかし、戸籍制度に登録するために、天皇家以外のすべての人が苗字をもつことになった。
 1871(明治4)年、戸籍法が制定され、近世の身分が分かる差別的な戸籍ではあった(1885年、壬申戸籍は廃止され、現在は封印されている)が、国民を戸籍によって把握できた。しかし、1875(明治8)年に「平民苗字必称義務令」が出されたのをみると、戸籍に登録しない、苗字をもたないままの人がいたことが分かる。
 同じ1871(明治4)年 「一世(いっせい)一元(いちげん)の詔(みことのり)」が出され、天皇一代には元号を一つにすることが定められ、天皇が亡くなって改元するようになった。それ以来、「平成」の特殊な例(2021年生前退位)を除いて、元号の改元は天皇の死によって行われることになった。
 戸籍制度が整備されると、1873(明治6)年、徴兵制度が制定された。満20歳の男子に課される徴兵検査は、免役される場合があった。身長が規定(154.5㎝)に達しない者、障がい者、罪科ある者、官公庁に勤務する者、すでに陸海軍の生徒である者、洋行修業者、医学生、馬医術を学ぶ者、一家の主、嗣子、270円(常備役歩兵1人の年間維持費(90円)の3年分。この制度は1883年に廃止)上納できる者などが免役された。金持ちは軍隊に所属しなくてもよい制度だった。しかし、この年の徴兵制度では、20歳以上の男子の3~4%の徴兵率しかなく、1889年(明治22)年に大改正が行われ、ほぼ国民皆兵制となった。
 そして、戸籍制度が実質的な役割を果たすのは家制度においてであるが、家制度ができる前に憲法が制定された。1889(明治22)年、『大日本帝国憲法』とともに『皇室典範』が制定され、両者は同等に位置づけられた。近代天皇制を確立する憲法は、国家的権限をすべて天皇に集中させたので「天皇大権」ともいわれ、立憲君主制を基本とすることで、欧米と肩を並べようとした。その第一条は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第三条は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定められ、天皇が統治権をもち、かつ「あら現ひと人がみ神」であることを規定した。しかも、同等の権限をもつ『皇室典範』の第一条は「大日本国皇位ハ、祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と、天皇は男性に限ることが定められた。近代以前には女性天皇も存在したが、女性天皇の存在をまったく否定したのである。女性天皇の存在は現在もなお認められていない。天皇制の女性差別は明らかだった。
 こうした天皇制のもとに、1890(明治23)年 『教育に関する勅語』(『教育勅語』)が発布され、国家・天皇に対する関係性、家族の関係性を明らかにし、全国民に実践させようとした。この『教育勅語』は1930年代以降の戦争時には、軍国化を正当化する目的で学校で暗記させられた。「一旦緩急アレハぎ義ゆう勇公ニ奉シ以テてん天じよう壌む無きゆう窮ノ皇運ヲふ扶よく翼スヘシ」は、国家が危ないときには、命をかけて国家・天皇のために戦うことを意味し、「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ」は、対等な人間関係ではないことを説いた。親と子の関係は子どもが親に孝行を尽くすことを求め、親に従うことが求められた。夫と妻の関係は夫が上で、下に位置する妻が従うことが「和」であった。

妻帯仏教
 仏教は、そもそも釈迦に始まったときには、出家を本来の姿としていた。釈迦は結婚の経験をもつが、妻子を捨て、家を捨ててさとりを開いた。仏教の基本的な戒律である五戒は、不殺生(せっしょう)戒(生き物を殺さない)、不偸盗(ちゅうとう)戒(人のものを盗まない)、不邪淫(じゃいん)戒(セックスをしない)、不妄語(もうご)戒(うそをつかない)、不飲酒(おんじゅ)戒(酒を飲まない)をいう。五戒を守る修行生活が出家であり、仏教の基本である。
 しかし、日本の仏教の特色として檀家制度を述べてきたが、もう一つ大きな特徴が妻帯仏教をあたりまえとしていることである。浄土真宗は、宗祖である親鸞が妻帯したことにより、その後の教団は僧侶の妻帯を当然のこととしてきた。近世には、そのことを正当化する文書が出されている。浄土真宗以外の仏教者に対して正当性を宣言しなければならなかったのであろう。他の宗派の僧侶は、たてまえとして出家のかたちをとっていたからである。
 ところが、1872(明治5)年、「太政官布告」133号が出される。「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」と、僧侶は肉を食べても結婚してよい、髪を伸ばしてもよいとのことである。その上、法務以外は一般の人と同じ洋服を着てもよいことを政府が認めた。日本の僧侶が背広を着ているのは、このためである。結婚を政府が許してくれるという奇異なことがおこった。政府の意図は、宗教者を大教院体制の教導職に就かせ、戸籍制度のなかに組み入れたかったのだ。ただ戸籍制度に組み入れるには苗字を与えるだけですむのに、肉食妻帯まで許した。そこには、僧侶身分を特別扱いしないで、一般人と同じようにしたかったとみるのが妥当であろう。
 では、この政府の沙汰に対して、仏教者はどのように対応したのだろうか。政府に対して拒絶した僧侶がいたことはいたが、大勢は政府のいうとおりに従い、仏教者としての本来の姿を保とうとしなかった。「仏教の出家受戒原則と「肉食妻帯」現象との矛盾葛藤はほとんど意識されることがなかった」(9)とあるように、現在も日本の僧侶は肉食妻帯をあたりまえにしている。政府に従順であり、また、浄土真宗の僧侶が範になったことも間違いないだろう。
 明治政府のもとで僧侶のあり方が根本から変わったのである。僧侶の結婚は、家族をもつことであり、家制度に組み込まれていくことだった。それは寺族(僧侶の家族)を生み出し、寺の世襲制を生み出した。そして、檀家制度は揺るぎないものとなる。家制度の典型を築いていくことになったからである。
 僧侶の結婚は、住職とその妻という関係が新たに生みだされたことで、一般家庭と同様、否、それ以上に性別役割分業が強くなったことは否定できない。宗派により呼び名が違うが、住職の妻は坊守、寺庭夫人、大黒などと呼ばれ、寺内において住職の内助の功を求められる役割が固定化されていった。近代の住職の妻は住職になれなかったし、男性僧侶の下に位置していた。

 寺族が生み出されたことは、日本仏教の特色となる寺におけるジェンダーの問題を明らかにした。寺に生まれたり、結婚によって寺族になったりした女性たちが、現代、ジェンダーの問題に気づき、発言しだした(10)。
 
家制度
 天皇制を支える最小の共同体が家族であり、その制度化を果たしたのが、家制度である。1898(明治31)年、民法制定により、家制度が成立した。「家」とは、「戸主(家長)」と「家族」から構成されたものをいう。戸主に家の統率権限を与えた制度であり、一つの家族は一つの戸籍に登録される。つまり、同じ家に属するか否かの証明は、戸籍に記載されているか否かによる。
 家制度は、民法746条には、「戸主及ヒ家族ハその其家ノうじ氏ヲ称ス」「妻ハ婚姻ニよ因リテ夫ノ家ニ入ル」とあり、同じ戸籍内における家族が同じ氏(苗字)を名乗ることが決められた。日本の家制度の特徴は、家の存続を重視したために基本的には父系の血統集団であるが、養子制度を認めたところにある。788条には、「入夫及ヒ婿養子ハ妻ノ家ニ入ル」とある。だから、女性の戸主もありえたが、多くの場合、婿養子が戸主となった。家制度において継続するのは、基本的には長男を通した家名、かとく家督、さいし祭祀権である。家督とは財産のことであり、祭祀権については後述したい。
 天皇家がアマテラスを例外として、それ以降は男系で続き、その根底を担うそれぞれの家族が祖先からつながっており、それが天皇制を支えている構造である。家制度は、「家族」が継承されることを目的としているので、個人よりも家を優位に置いた。父系でつながっていかねばならないので、夫婦の関係よりも親子の関係が重視された。
 女性に求められる役割は、まずは結婚することだった。結婚の意味が明確になり、結婚できない女性が差別されることになった。結婚すれば子どもを産むことがその役割となる。国家の要請は「産めよふ殖やせよ」であり、多産が求められ、長男を産むことは家を存続させるためには必須だった。結婚は夫の家の戸籍に入ることで「入籍」であり、戸籍制度に縛られることになった。一度結婚すれば、離婚は困難だった。離婚は、戸籍に記載され、本籍に戻ることになり、「戸籍が汚れる」といわれた。
 また、嫁いだ家に埋没した生き方が求められ、「個」の確立は考えられなかった。嫁いだ家のしきたりに従う生き方が求められた。その意味では、「一人前の女性」が家制度を背景につくられたことになる。「一人前の女性」とは、あたりまえに結婚し、結婚したら男子を産み、子どもはたくさん産む、嫁いだ家の嫁として働く労働力になり、舅姑、夫に従って生きることだった。『教育勅語』の「夫婦相和シ」の「和」はけっして対等な関係を意味しなかった。1907(明治40)年に「堕胎罪」が決められ、中絶をする女性も罰せられたので、女性は自分の意志で中絶することはできなかった。
 近世の女性の生き方に加え、新たに求められたのが、良妻賢母である。よい妻は近世を受け継ぎ、加えて教育する母が求められた。もちろん階層の高いところからであるが、子どもへの道徳的な教育を施すことが求められた。また、女性のみに「かん姦つう通ざい罪」(1907年)が課された。
 一方の男性には、長男と次男以下の男性では大きな相違があった。家制度を継承していく長男は、跡継ぎとしての自覚をもって、戸主として生きなければならなかった。それが、「一人前の男性」として認められることだった。他方、次男以下の男性は、労働力として、また、兵力として求められ、これはこれで、「一人前の男性」であることが課された。例えば、徴兵検査に不合格の場合は、一人前の男性として認められないことになる。後に、日本の軍隊が命令には絶対に従う、私的制裁であるリンチが行われる等の内容が明らかになり、意識的に徴兵検査に合格しないことが試みられたこともあったが、当初の徴兵検査では、「一人前の男性」として認められることが大切だった。日本の徴兵検査の人権侵害は甚だしいものだった。「素っ裸で四つん這いになって、肛門や前の方の検査を手荒くやられるのには閉口した」(11)というほどの検査が行われていた。命令のままに殺人も平気でする兵士をつくる目的で、男性のプライドをなくすために行われたと推測できよう。 
こうした男性と女性の生き方――完全に二分される家制度の性別役割分業のあり方が、近代天皇制を支えたジェンダーであった。

 家制度の対局に、公娼制度がある。遊廓は1589年、豊臣秀吉により京都につくられたが、近世に幕府が認める公娼制度になり、江戸の吉原、京都の島原は有名だった。かくちでつくられ、修験道は修行のあとに、「精進落とし」として買春を行っていた。
 近代天皇制国家のもとでは、国家が認める公娼制度となり、軍隊ができるところに遊廓がつくられ、兵士の慰めとされ、その延長線上に「慰安婦」制度があった。日本人男性の性意識を遊廓はつくり、一人前の男性になることはセックスができることになった。戦争中のことをわたしが聞き取りしたときの話であるが、赤紙が届いた(召集)あと、母親がお金を息子に握らせ、「行っておいで」と送り出したのは、遊廓へ行くことだった。「女も知らないで死ぬ(セックスの体験もなく死ぬ)」ことはかわいそうだという性意識を女性さえもっていたのである。
 戦後、公娼制度はなくなったが、買春ツアーやさまざまな買春方法を編み出してきた日本における買売春の文化は、女性さえ認める男性中心の文化をつくり上げている。

家制度と檀家制度
 家制度が基本的に長男を通じて、家名、家督、祭祀権が継承されることを述べたが、ここでは祭祀権に関係する家制度と檀家制度について述べたい。
 国家は、家の相続がいかに大切かを国民に教えた。それは、男系を通じて継承される天皇制を支えるのが家制度だからである。家族以外の、例えば、職業が長くつながるのも、基本的には家制度を前提とする。
 家制度の継続を補完していたのが、檀家制度である。すでに述べたように、寺請制度はなくなったが、檀家制度は残ったので、「葬式仏教」と揶揄されながらも現在にまで続いている。
 檀家制度は法的に定められていないが、民法第987条には、祭祀権が定められている。「系譜、祭具及ヒ墳墓ノ所有権ヲ承継スルハ家督相続ノ特権ニ属ス」とある。「系譜」は過去帳、家系図など、「祭具」は仏壇、位牌を指し、「墳墓」は、「〇〇家之墓」「先祖代々之墓」などと刻まれたように、墓を意味する。墓は火葬が中心になると、遺骨を納める場所となった。その承継者は「家督相続ノ特権ニ属ス」とあり、戸主(家長)である。
 近世の檀家制度が残り、菩提寺を離れられない檀家は、「信教の自由」をいわれても自らの信仰(信心)を選ぶ人は少なかった。その時代に信仰を選ぶのはキリスト教だった。ちなみに、1895(明治28)年のカトリック教会は、信徒数50302人、司教4人、司祭はパリ外国宣教会士88人、マリア会士27人、邦人司祭20人である。また、プロテスタントは1888(明治21)年に249教会、信徒数15514人、宣教師451人、神学校14校、神学生287人、年間の受洗者は約7000人である。当時の人口は推定でしかないが、約4千万人前後である。クリスチャン人口は0.002パーセントにも満たない。現在のクリスチャン人口が約1パーセントといわれるのをみても、「信教の自由」が謳われても個人が自身の宗教を選んだとは考えられない。
 また、明治初期には、如来教・黒住教・天理教・金光教などの新宗教がおこった。しかし、新宗教を信仰しても祭祀を行うのは仏教でという方式をとることが多かったので、檀家制度はそのままに機能したのである。

やす靖くに国信仰と檀家制度
 近代天皇制下で戦争があり、国家として戦うことになった結果、国が戦死者を祀ることが行われた。  
国内の戦争は1868(明治元)年、薩摩・長州連合軍(天皇方・政府方)と幕府軍が戦ったぼしん戊辰戦争があり、天皇方が勝った。その結果、天皇方の戦死者を祀る目的でつくられたのが、1869(明治2)年の東京しようこんしや招魂社である。負けた政府軍の戦死者に対しては冷たい態度をとった天皇方であった。東京招魂社は、1879(明治12)年、別格かん官ぺい弊しや社靖国神社となった。靖国神社の管理は陸軍省・海軍省と内務省が行い、ぐうじ宮司(靖国神社の最高の神職)は陸軍大将だった。祀られる人(英霊)は、天皇・国家のために戦って亡くなった軍人・軍属(戦傷死・戦病死を含む)、満州開拓団員や従軍看護婦などである。
 靖国神社の目的は、死者の名誉ある行為をけんしよう顕彰(功績を表彰)し、戦死者を慰霊するためだった。その特徴は、こつかしんとう国家神道の中核をなすものであり、「国体」(国家体制・天皇にまつろう道)そのものを表し、普通の人が祭神となり、その祭神は増えるのである。
 国家は、国民に国家・天皇のために戦い死ぬことがいかにすばらしいことか、そして靖国神社に「英霊」として祀られることが立派なことかを教育・新聞・軍歌などを通して教えた。
 日中戦争(1931年)の頃から戦死者の数が増えるに従って、国家は「英霊」を巧みに利用した。兵士の合いことばとなった「靖国で会おう」は、「国家・天皇のために戦って潔く死のう」という意味である。
 靖国神社に祀られている祭神数は、以下の通りである。

  明治維新                   7751柱
  西南戦争                  6971柱
  日清戦争                 13619柱
  日露戦争                 88429柱
  アジア太平洋戦争(戦後にも合祀されている)    2342341 柱
  その他(台湾征討、北清事変、第一次世界大戦など)  7473柱
                             (2004年10月現在)

 合計すれば、2466584柱である。このなかには、植民地下だった韓国・台湾人の合計は約4万9000人が含まれている。戦後、韓国の遺族が靖国神社に祀られていることを辞めてほしいと訴えたが、靖国神社は一度祀った英霊はおろすことができないという理由で応じていない。同じことは、日本人にも信仰が異なる仏教者やクリスチャンなどが同様のことを求め続けているが、靖国神社は応じていない。

 敗戦後の1945年、「神道指令」により、靖国神社は政教分離の原則に則り単立の宗教法人となった。つまり、国家神道の解体が行われ、政府による神社神道に対する援助の禁止や公立学校における神道教育の禁止、公務員の公的資格での神社参拝の禁止が決められた。
 また、1947年の『日本国憲法』施行により、第20条[信教の自由、政教分離]として、次のように定められた。
 
① 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  ③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 しかし、政府は靖国神社と切り離されることなく、首相の靖国神社参拝が常に話題になるほどに行われてきた。  
 1978年には、14人のA級戦犯の合祀(絞首刑の7人と拘留・服役中に死亡した7人)が行われ、靖国神社は戦争と切っても切れない関係として政府と結びついている。
 しかし、天皇・国家のために戦った軍人・軍属(戦傷死・戦病死を含む)、満州開拓団員や従軍看護婦などの戦死者は靖国神社に祀られたが、そうではない戦死者(空襲での戦死、広島・長崎の原爆での戦死、沖縄戦での戦死など)は、靖国神社に祀られることはなかった。直接的には戦ってはいないが、戦争による戦死であることに違いはない。靖国神社に祀られる英霊とそうではない戦死の意味が違うとされる靖国神社は、アメリカのアーリントン墓地とは違うし、国家が祀る施設でもない。一宗教法人が祀る施設だから、外国の要人も参拝することができない。
 靖国神社には、れい霊じ璽ぼ簿(戦死した人を記載したもの)が存在するだけである。そこには、靖国信仰があり、家の宗教と矛盾することなく、二つの信仰をもつことになる。檀家制度は、靖国信仰と何ら対立することなくスムーズに受け入れられている。戦時中も戦後もなくならなかった檀家制度下で、ほとんどが戦死者の供養を家の仏教で行ってきた。
 これは、寺院においても何も問題をもたなかったことを意味する。わたしの生家は浄土真宗の末寺だが、靖国神社に祀られている戦死者がだれかはすぐ分かる。過去帳に院号がつき、その横に年齢と戦死した場所が記されている。法名が戦死だとすぐ分かる漢字が用いられている。戦後に戦死が分かった人は、父が法名をつけたのである。院号をつけない浄土真宗なのに、院号をつけ、勇ましい漢字を使っている。わたしが寺の過去帳を見たのは、今から10数年前であり、父はすでに亡くなっていた。父が戦死者の法名をつけたのは戦後だったが、父の想いは想像できる。軍国主義のままの父だったのである。同じ家の他の死者には、どの人にも院号がついていない。戦死者に対する特別の感情が父にはあった。わたしは、どんな死に方をしようと法名の意味を変えてはならないと思う。まして国家のために亡くなったからといって、特別の法名をつけるべきではなかったと思う。

(3)戦後の家制度的なものと檀家制度  
なくなったはずの家制度は残ってしまった
 戦後、家制度はなくなった。それを証明するのは、憲法第24条である。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定されているから、完全に家制度はなくなった。なくなったものは、それに応じたスタイルに変わらなければならない。しかし、画期的と思われるほどの変化はみられなかった。その理由としては、戸籍制度に変化がみられず、夫婦別姓が実現しなかった点が挙げられる。また、檀家制度が残ったため、家制度と切れないので、変化はむずかしかった。というより、檀家制度が変わらないので家制度的なものも変わりようがなかったといえるかも知れない。
 それは、冠婚葬祭の「婚」にも「葬」にもいえた。結婚は恋愛を基本として変化がみられたが、結婚式は長い間、「~家」と「~家」の形式が採られたので、家制度を払拭していなかった。「葬」についても、民法に決められた祭祀権は、「系譜、祭具および墳墓の所有権は、(中略)慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承継する。但し、被相続人の指定に従って祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が、これを承継する」(第897条)となり、民法通り、「慣習」に従って行われてきたので、家制度を払拭した方法ではなかった。また、「葬」に関連する「祭」の法事も会食の仕方(家で食事をつくらない、仕出しにする、外食をする等)は変化したが、やはり檀家制度に則り、家制度的なもので仕切られてきた。
 憲法で多くの「自由」が謳われ、そのなかには信教の自由も当然の権利として認められた。しかし、日本人が真に信教の自由を駆使することは現在に至ってもできていないといっても過言ではない。「信仰をもたない」という人はいるが、儀式やイベントについてまで「信仰をもたない」という信念に基づいて行動する人は少ない。七五三や厄払いは神道で、結婚式はキリスト教で、葬儀は仏教で行っている状況は、とても「信仰がない」とはいえないし、「信仰がある」ともいえない。
「宗教的行事に参加してますか?」というアンケート(12)に答えたのは、「はい」が78%、「いいえ」が22%である。その「宗教的行事」が問題である。「お彼岸・お盆の墓参り」「初詣」「仏壇・神棚を拝む」「神社仏閣を観光などで訪れる」「葬式」「お守りやお札を買う」「クリスマスを祝う」「結婚式」である。そこには「七五三」「厄払い」「神社の祭」「法事」「寺院・教会のイベント」などが入っていないので、それらが入ると「はい」の回答はもっと増えるだろう。信仰(信心)のあるなしを聞いていないので、分からない点もあるが、多くの日本人は宗教的行事に参加していることは事実である。
 これは、「個」の確立ができていない日本人のありようを示しているといえるのではないだろうか。わたし自身がフェミニズムに出逢う以前は、フェミニズムが説いた経済的、生活的、精神的、性的自立の生活的自立しか果たせず、「個」の確立ができていなかった。だから、「個」の確立を果たせない他の人のことも分からなかった。ただ、わたしは、信心はもちたいと一生懸命だったが、恩師となる人との出会いによって、信心をもたないことを決心したので、宗教的自立は果たしていると思う。
 「宗教的自立」はわたしの造語であるが、「個」の確立と同等のものだと考えている。「信仰をもつ」「信仰をもたない」のいずれにしても、信仰は家制度的なものをよりどころとしてはもてないと思う。「信仰をもたない」ことを確立するなら、家制度的なものに縛られることはないと考え、宗教的自立の視点からしなくてもよいことが理解できるだろうし、一方、何をやりたいかも明確になると思う。例えば、「信仰をもたない」とするなら、墓の問題では、家制度的な墓をもたないと決めることができる。その決心は、墓から解放されることを意味するのである。  

コロナ禍での檀家制度の変化
 2020年の新型ウィルスコロナの蔓延によって、家制度的なものに変化がみられるようになった。とくに「葬」の場面においてである。葬儀のやり方に変化がみられる。新幹線、電車等で移動しなければならない関係者が葬儀に参列できなくなった。他の都道府県の車を排除する動きもあったので、車で参列することもできない場合がある。
 実際、わたしの義妹が2021年8月に亡くなった。弟のつれあいで寺の坊守である。66歳という若さはあまりにも早く、予想もしない義妹の死であったが、彼女のきょうだい3人がすべて東京、静岡に住んでいたので参列することはできなかった。親戚として参列したのは、わたしと甥のつれあいの親戚のみであった。彼女の親きょうだいが同じ島根県下に住んでいるので参列できたのである。京都府在住のわたしは、ワクチンを打っていて、車で行かないという条件がそろっていたから許される範囲だった。これは、閉鎖的な島根という地域で、コロナによる差別があるからという判断だった。義妹のきょうだいが東京から来ることを許さないのは世間だと判断したからである。身内だけの葬儀ではなく、寺の葬儀だからの配慮だった。寺の葬儀は「小さなお葬式」というわけにはいかないからである。
 知り合いや友人たちの話を総合しても、一日葬にしたり、参列者の制限が行われる葬儀に変化した。檀家制度下のこれまでの葬儀とは趣を異にした。しかし、仏教式の僧侶による葬儀の形式がなくなったというわけではない。
 この変化が檀家制度を変えていくのかどうかは疑問である。なぜならコロナ禍という外圧によって変化せざるを得ない状況がつくられたのであって、檀家制度や家制度的な葬儀のありように対しての疑問からではない。コロナ禍がおさまれば、元の木阿弥になってしまうのではないかと危惧する。
 しかし、元通りにはならない可能性もある。なぜならコロナ禍の「葬」は安価だった点を多くの人は忘れないと思うからである。これまでの「葬」は非常に高価だった。日本人が行う葬儀費用の平均は、231万円(2007年、財団法人日本消費者協会)だった。僧侶への布施、飲食等をすべて含んでいるが、実に高い。もちろん香典の受取によって差し引かれるが、それでも高い。
 コロナ禍での費用は、 110.7万円(2022年、鎌倉新書の調査による)になっており、2007年に比較すると、半額以下である。また、葬儀形式も「家族葬」55.7%、「一般葬」25.9%、「直葬・火葬式」11.4%となっており、「家族葬」の増加が目立つ。香典の受取額も下がっていて、平均47.2万円であり、2020年の71.1万円からすると、24万円近くも下がっている。香典の受領額が下がっても実際の葬儀費用が低くなっているので、全体からすれば、少額ですむことになる。葬儀費用が安かったという記憶は残る。自分の意志ではないコロナ禍による変化であるが、葬儀形式、費用の変化はコロナ禍が終わっても続くだろう。
 それが、ひいては檀家制度、家制度的なものへの変化につながっていく可能性はある。ただ、自らの意志、宗教的自立によって変化がみられるものではないことは確かである。檀家制度、家制度的なものが残る限り、ジェンダーの視点からの宗教的自立は遠い。

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