自分らしいお葬式やお墓を考えましょう。

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声欄からの感想

2019-12-29 11:24:56 | 日記
 12月25日(水)づけの「朝日新聞」の声欄に、20歳の大学生の投稿が載っていました。「亡き人を忘れるのは薄情?」のタイトルがついていて、彼女(だと思う)は高校時代に母方の曾祖父を亡くしたのです。「忘れる」ことは、身近な人の死に直面した際の深い悲哀を緩和する一方、大切な人の死ですら日々忘れてしまうことを薄情だろうかと問いかけています。曾祖父の通夜も葬式も学校があるという理由で、母から参列しなくてもいいといわれ、その通りにしましたが、可愛がってもらった曾祖父の葬式にも出ない薄情者と思い、自分を責める声がしたそうです。遺影の前で線香をあげることができたのが葬式の後だったことを今でも悔やんでいるそうです。それなのに、曾祖父の記憶が徐々に薄れ、記憶し続けようとすれば、亡くなってすぐに駆けつけなかった後悔にさいなまれるそうです。忘れることも記憶に留めることも苦しいときは、いったいどうすればよいだろうという内容です。
 
 わたしは、この記事を切り取りました。それほどわたしの心に残ったのです。ふと、こういうことがあるのかなと思ったのです。大切な人の記憶がなくなることについて、わたしには考えられないと思ったからです。曾祖父に可愛がられたという記憶があるし、大切な人だと思っているのです。そういう人の記憶がなくなるなんて、あり得るのでしょうか。

 わたしも高校生のときに曾祖母を亡くしました。記事の人と違うのは、同居していました。忘れることはありません。祖父母は別居していましたが、亡くなってもうずいぶんになりますが、大切な人として忘れることはありません。わたしには、大切な人と思える人が亡くなった場合、忘れることが考えられないので、この記事を切り取ったのです。曾祖父を高校生のときに亡くして、大学生で忘れていく自分を責め、記憶に留めることが苦しいといっています。そんなに早く忘れていくものでしょうか。わたしには、とうてい考えられないことなのです。
 逆に、「忘れなさい」といわれても、大切な人を忘れることはできません。生きているときに、ほんとうにどう思っていたかが問われるのでしょうか。嫌なことがあったとしても、忘れないと思います。曾祖母も祖父母も父もよいことばかりではなかったし、可愛がってもらっただけではありません。それでも、わたしにとって大切な人でした。忘れることはありません。

 わたしが、この大学生の疑問、苦しさに答えることはありませんが、どうしてこういう悩みをもつのかが不思議です。わたしにとって考えられないことが、この世のなかの人にはあることを知った次第です。

 今年も終わります。今年は大切なネコが亡くなりました。亡くなって家族だったと痛感しました。ネコもけっして忘れることはありません。
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新聞記事「私らしく就活」について

2019-12-19 10:30:44 | 日記
 12月19日、「朝日新聞」に「私らしく就活」の記事が載っていました。タイトルは、「葬儀・供養・・・信頼できる寺で」となっていて、都市化や核家族化によって菩提寺をもたない人が増えたので、いざというときに困ることがテーマになっています。その記事のなかに、一般社団法人「お寺の未来」が2016年に行ったインターネット調査で、20~79歳の男女1万人が対象であり、「檀家である」「わからない」「檀家でない」の結果が載っています。全国平均は、「檀家である」29%、「わからない」17%、「檀家でない」54%です。「檀家である」と応えた1位は、山陰の54%であり、最下位は首都圏の16%です。山陰出身の私は納得しました。しかし、1位の山陰でも、半数ちょっとしか「檀家である」となっていないのです。檀家離れがそうとう進んでいることを表しています。
 記事には、大阪市の應典院の秋田光彦住職を始め、そういう問題に困っている人のためのトークイベントや研究員の情報サイトが載っています。
 いざというときに困るのは、家族のだれかが亡くなったときです。何の準備をしていない人が困ることです。しかし、この頃、「就活」ということばができたころから、わたしの周りや講座などで会う人たちは、それなりに準備されていると感じます。一度経験した人は、とくにそのときの失敗を繰り返さないために、それなりの心づもりをされているように見受けます。といっても、新しい寺を探そうという人はまれです。
 そのまれな人のなかに、これまでの菩提寺とうまくいかなくなって、積極的に新しい寺をみつける人に出会いました。それは、夫を亡くした後の関係がまずくなり、この檀那寺と縁を切りたいと思ったことが始まりだったようです。何故積極的になれたかというと、次は、自分の番だとしっかりと意識されていたからです。いつ亡くなってもおかしくない死生観をもって生きている人だからです。自分が亡くなったら、自分で何ごともすることができなくなり、一人娘に託さねばならないという事情もあったようです。娘にお願いするために、理解ある住職に出会いたいという気持ちからです。寺と檀家というより、住職と頼みたいその人との関係を求めている感じです。そこには、「家」がなくなり、住職と個人がつながる関係性が求められると思いました。
 しかし、よい関係性を求める住職がそう簡単にみつけられるものではありません。実際に紹介された住職と会われた結果、距離的に問題とか、何となくしっくりこないとかの問題があり、スムーズにはいかないようです。
 人間と人間が出会うとき、そして関係をもとうとするとき、そんなに簡単ではないことを痛感します。いくら求めるものが強くあっても、相性もあるでしょう。さまざまな理由で、ふたりがピタリとうまくいくのは、ほんとうにむずかしいことです。
 新聞記事の「信頼できる寺」といっても、そう簡単ではないと思いながら、読みました。それよりもさっぱりと寺に頼まないほうがよいと思ってしまいます。葬儀社に頼まないとできない昨今ですが、葬儀社には、棺だけ用意してもらった友人がいます。棺もインターネットで頼んでいたのですが、妹から「ノー」といわれ、棺だけ葬儀社に頼んだのです。お寺は知り合いだったから、お寺の心配をしなくてもよかったのは、ラッキーでした。そのとき、お寺を知らなかったら、そこで、直葬をしたらすむことです。読経をしてもらう代わりに、亡くなった人の関係の親しい人に集まってもらい、亡くなった人を偲び、ほんとうに悲しむ人だけが集まることで、追悼の意味があります。「追悼」とは、もともとそういう意味があり、関係のない人にまで参列してもらう必要はないと思います。いまだに、お寺に僧侶に読経してもらうということをあたりまえにしている自分を見つめ、解放していってもよいのではないでしょうか。





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