12月25日(水)づけの「朝日新聞」の声欄に、20歳の大学生の投稿が載っていました。「亡き人を忘れるのは薄情?」のタイトルがついていて、彼女(だと思う)は高校時代に母方の曾祖父を亡くしたのです。「忘れる」ことは、身近な人の死に直面した際の深い悲哀を緩和する一方、大切な人の死ですら日々忘れてしまうことを薄情だろうかと問いかけています。曾祖父の通夜も葬式も学校があるという理由で、母から参列しなくてもいいといわれ、その通りにしましたが、可愛がってもらった曾祖父の葬式にも出ない薄情者と思い、自分を責める声がしたそうです。遺影の前で線香をあげることができたのが葬式の後だったことを今でも悔やんでいるそうです。それなのに、曾祖父の記憶が徐々に薄れ、記憶し続けようとすれば、亡くなってすぐに駆けつけなかった後悔にさいなまれるそうです。忘れることも記憶に留めることも苦しいときは、いったいどうすればよいだろうという内容です。
わたしは、この記事を切り取りました。それほどわたしの心に残ったのです。ふと、こういうことがあるのかなと思ったのです。大切な人の記憶がなくなることについて、わたしには考えられないと思ったからです。曾祖父に可愛がられたという記憶があるし、大切な人だと思っているのです。そういう人の記憶がなくなるなんて、あり得るのでしょうか。
わたしも高校生のときに曾祖母を亡くしました。記事の人と違うのは、同居していました。忘れることはありません。祖父母は別居していましたが、亡くなってもうずいぶんになりますが、大切な人として忘れることはありません。わたしには、大切な人と思える人が亡くなった場合、忘れることが考えられないので、この記事を切り取ったのです。曾祖父を高校生のときに亡くして、大学生で忘れていく自分を責め、記憶に留めることが苦しいといっています。そんなに早く忘れていくものでしょうか。わたしには、とうてい考えられないことなのです。
逆に、「忘れなさい」といわれても、大切な人を忘れることはできません。生きているときに、ほんとうにどう思っていたかが問われるのでしょうか。嫌なことがあったとしても、忘れないと思います。曾祖母も祖父母も父もよいことばかりではなかったし、可愛がってもらっただけではありません。それでも、わたしにとって大切な人でした。忘れることはありません。
わたしが、この大学生の疑問、苦しさに答えることはありませんが、どうしてこういう悩みをもつのかが不思議です。わたしにとって考えられないことが、この世のなかの人にはあることを知った次第です。
今年も終わります。今年は大切なネコが亡くなりました。亡くなって家族だったと痛感しました。ネコもけっして忘れることはありません。
わたしは、この記事を切り取りました。それほどわたしの心に残ったのです。ふと、こういうことがあるのかなと思ったのです。大切な人の記憶がなくなることについて、わたしには考えられないと思ったからです。曾祖父に可愛がられたという記憶があるし、大切な人だと思っているのです。そういう人の記憶がなくなるなんて、あり得るのでしょうか。
わたしも高校生のときに曾祖母を亡くしました。記事の人と違うのは、同居していました。忘れることはありません。祖父母は別居していましたが、亡くなってもうずいぶんになりますが、大切な人として忘れることはありません。わたしには、大切な人と思える人が亡くなった場合、忘れることが考えられないので、この記事を切り取ったのです。曾祖父を高校生のときに亡くして、大学生で忘れていく自分を責め、記憶に留めることが苦しいといっています。そんなに早く忘れていくものでしょうか。わたしには、とうてい考えられないことなのです。
逆に、「忘れなさい」といわれても、大切な人を忘れることはできません。生きているときに、ほんとうにどう思っていたかが問われるのでしょうか。嫌なことがあったとしても、忘れないと思います。曾祖母も祖父母も父もよいことばかりではなかったし、可愛がってもらっただけではありません。それでも、わたしにとって大切な人でした。忘れることはありません。
わたしが、この大学生の疑問、苦しさに答えることはありませんが、どうしてこういう悩みをもつのかが不思議です。わたしにとって考えられないことが、この世のなかの人にはあることを知った次第です。
今年も終わります。今年は大切なネコが亡くなりました。亡くなって家族だったと痛感しました。ネコもけっして忘れることはありません。