ブログの画面の字が小さくなり、大きくする方法が分かりません。なぜこのような画面になったのかも分からないパソコンを苦手とします。読む人も読みにくいのではないかと心配しますが、書いている本人も書きにくいです。
2月19日の「朝日新聞」の寄稿記事をむさぼるように読みました。書いた人は作家の小池真理子。タイトルは、「最期まで語り続けた彼 ひとつ屋根の下 二人の作家 ただ、さびしい」です。小池真理子の夫・藤田宜永を1月30日に肺がんで亡くし、まだ死後1ヶ月にもならないときの寄稿です。肺に3.5センチの腫瘍が見つかってから1年8ヶ月。夫の苦痛を傍らで見守り、その衰弱を目の当たりにして、死を迎えたのでした。よくしゃべった子どもをもたない選択をした夫婦だったのです。
さすが作家の文章であり、引き込まれるのです。でも、やはり最後の文章「それにしても、さびしい。ただ、さびしくて、言葉が見つからない」は、作家でありながら、ひとりの人としての感情が出ていて、感動的です。同じ思いをした者だから、この文章に引き込まれたのだと思います。愛する人を亡くすのは、ほんとうにさびしいとしか言い様がないからです。わたしは、つれあいを亡くして3年を過ぎましたが、「さびしい」思いは変わらないです。どうしようもなくさびしいのです。この寂しさは、何かが取って代わってくれる者がいないのです。「死」が表す非情な現実です。
その裏返しは、愛する人がいるのは、元気が出るということです。生きる意味を見いだすことができるのです。わたしは仕事やその他に生きる意味を持ちにくい人だと実感しました。愛する人がいることが一番だと思います。だから亡くしたものの大きさをさびしいとしか言い様がないのです。
小池真理子が3年経って、どんな言葉を紡ぐか読んでみたい者です。
2月19日の「朝日新聞」の寄稿記事をむさぼるように読みました。書いた人は作家の小池真理子。タイトルは、「最期まで語り続けた彼 ひとつ屋根の下 二人の作家 ただ、さびしい」です。小池真理子の夫・藤田宜永を1月30日に肺がんで亡くし、まだ死後1ヶ月にもならないときの寄稿です。肺に3.5センチの腫瘍が見つかってから1年8ヶ月。夫の苦痛を傍らで見守り、その衰弱を目の当たりにして、死を迎えたのでした。よくしゃべった子どもをもたない選択をした夫婦だったのです。
さすが作家の文章であり、引き込まれるのです。でも、やはり最後の文章「それにしても、さびしい。ただ、さびしくて、言葉が見つからない」は、作家でありながら、ひとりの人としての感情が出ていて、感動的です。同じ思いをした者だから、この文章に引き込まれたのだと思います。愛する人を亡くすのは、ほんとうにさびしいとしか言い様がないからです。わたしは、つれあいを亡くして3年を過ぎましたが、「さびしい」思いは変わらないです。どうしようもなくさびしいのです。この寂しさは、何かが取って代わってくれる者がいないのです。「死」が表す非情な現実です。
その裏返しは、愛する人がいるのは、元気が出るということです。生きる意味を見いだすことができるのです。わたしは仕事やその他に生きる意味を持ちにくい人だと実感しました。愛する人がいることが一番だと思います。だから亡くしたものの大きさをさびしいとしか言い様がないのです。
小池真理子が3年経って、どんな言葉を紡ぐか読んでみたい者です。