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講座 お墓を考える

2019-10-20 16:22:59 | 日記
 3回目の講座は「お墓を考える」で、最終回となった。もっとも悩んでいる人が多い問題がお墓である。すでに1回目の講座後のアンケートに墓じまいの方法を質問していた人がいた。墓じまいをしなければならないと考えている人にとっては、他人事ではおれないのである。
 最終回はグループディスカッションをしないで、わたしの問題提起の後、各自で今回の講座を受けたことの感想と質問を書いてもらうことにした。講座後のアンケートが送られ、質問があっても答えることができないからであるし、自分で書くことで感じたことや考えることができるかも知れないと思ったからである。
 まずは、わたしの問題提起は、いつものような墓の問題である。基本的には、これまで考えたことがないと思われるが、これまでお墓にお参りしてきたことを振り返り、どういう意味があるかを問うてほしいのである。お墓があれば、あたりまえのように彼岸やお盆に、または、亡くなった人の命日にお墓参りをしているのは、なぜしてきたのか、を問うのである。こういうことを問題提起する人は少ないと思うが、わたしは根本を問うことを大切だと考える。あたりまえとしていることを考えてみることである。つまり、考えてもみなかったことを考えてみるのである。墓じまいをしなければならなくなって初めてお墓のことを考えるのではなく、根本的になぜお墓参りをするのかを考えるのである。それは、お墓を今後必要と思うか、いらないと思うか、かたちを変えたいと思うかにつながると考えるからである。そして、いらないと考えるなら、どういう理由でいらないかが、自分で納得する考えをもつことができるからである。これまで通り必要と思っても、なぜ必要かがあらためて了解できると思うからである。かたちを変えたいと思うなら、どんなかたちにしたいかも、そしてそのときどんな方法があるかも模索できるからである。
 そういうふうに考えて、お墓の形式などを提起するなら、根本的なお墓の問題を考えられると思う。それはまた、遺骨をどう考えるかにつながると思うのである。遺骨についても根本的に考えたことが多くの人はないと思うからである。収骨をあたりまえにし、納骨をどうするかの手順でしか考えないと、根本的な問題に向き合うことができない。そうした思考方法は、ある意味、思考停止であるから、これまでのしきたりや慣習を引き継ぐことになってしまう。しきたりや慣習とされたことを根本的に考えることによって、どこに問題があり、どのようにしていけばよいかの方向性が見えてくるのではないかと思う。「おかしい」と気づいたとしても、すぐには自分ができないかもしれない。次世代に送ることになってしまうかもしれない。しかし、根本的に考えることで、次世代へつなぐ場合も、何も考えないでそのままつなぐよりも、少しは異なってくるのではないだろうか。
 だから、わたしは、問題提起として収骨をしなかった体験を語るのである。理由のよりどころは親鸞の思想によるが、収骨をしないなんて考えたこともない人にとっては、聞いたらショックかもしれないが、そういうことも考えられるという一つの情報を得ることになる。新たな情報を得る前に、これまでの自分がやってきたことを根本的に問うことは、大事であると思う。
 アンケート集計が送られてくると思うが、楽しみである。3回は長いと思っていたが、終わってみると、あっという間の講座だった。担当者の人と話したり、受講してもらった人と話すことができなくなって、少し寂しい。
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講座・お葬式

2019-10-14 10:49:54 | 日記
 2回目の講座はお葬式が中心だった。わたしが伝えたいことは、元気なときに大切な人と亡くなった後のことを話しておくことである。誰が先に逝くかわからない。残されたものが葬儀の後、嫌な思いをしないためでもある。

 それにしても、台風第19号の結果の凄さに衝撃を受ける。強いとあれほどいわれていたが、実際に亡くなった方がいる。どの人も自分が亡くなるなんて思ってもいなかっただろう。いつ何がおこるかわからないのを、まざまざと知らされる。危険を感じた人は避難所へ行っていたことだろう。「自分は大丈夫、ここは大丈夫」と思っていた人が亡くなったことになるだろう。危険を感じたときにはすでに遅かったのかもしれない。一瞬のうちに、または心肺停止のあとに亡くなっていくのだ。「死」がどんなものかを教えてくれる。
 亡くなる人の現実とは、対照的に、わたしなどは何もおこらない状態でニュースを聞いている。被災した人との大きな違いを感じてしまう。何ごともおこっていないのである。日常生活がまったく困ることがないのである。こうした違いをテレビで見ながら、「人生」は何がおこるかわからないことを教えてくれると同時に、わたしの上にも何がおきてもおかしくないと思う。生まれてきた以上、必ず死ぬのだから、何かがおきて死ぬのである。

 自然災害で死ぬ人もいれば、交通事故で死ぬ人もいる。殺されて死ぬ人だっている。悲しいかな自死の人もいる。そう考えれば、老いて、または病気になって死ぬことは、受け入れやすいのかもしれない。  「死」とは何かを、今回の受講された方が今回も書いていらした。
 普段は考える時間が少ないが、講座があるとき、ニュース上で死者が出ることなどを通して、「死」を身近に考える。

 講座のグループディスカッションが終わって、感想を聞いているとき、ひとりの女性の死後の準備に驚いた。ほとんど完璧である。遺言を始め、保険のことにかんする引き出し、遺産にかんする引き出し、着るものについての引き出し、誰に知らせるかの引き出し、といった具合にいろいろなことをすべて引き出しごとに分けているとのことである。みんな唖然として聞いていた。わたしもそこまで用意している人を初めて知った。なぜそのようにしようと思われたかを知りたかった。お父さんが戦争の体験があり、いつ死ぬかわからないことを体験し、生きているときに用意されていたという、お父さんの影響だったことがわかった。同じ戦争体験をしてもこれだけの違いが出てくるのだ、と勉強になった。
 ここまでしている人が、どうして講座を受けているのか、わたしにはよくわからなかった。
 今週が最後の講座だが、それを知りたいと思った。

 お葬式に関しての感想を読んだが、まだまだ遠くのことと思っている人がほとんどである。これから考えようとされるための講座なので、それは考えてもらえることになるからよかったと思えた。
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死について

2019-10-09 11:05:37 | 日記
 大阪府下の自治体での講座が3回にわたってあり、「生老病死」を考えるのだが、簡単にテーマを分けると、「老病」「お葬式」「お墓」について、それぞれ考えるのである。
 第1回目の「老病」が終わった。年齢層は高いので、老いの問題は我がことであり、介護の経験もあることが予想された。わたしは母の介護を実際にしているので、その体験を踏まえながら、そのしんどさを話した。認知症でありながら、徘徊、被害妄想、暴言暴力のない母なので、人からいわせると楽だが、当人のわたしはそうではない。介護はストレスになることは間違いがない。グループディスカッションの20分間が終わり、最初は発表を渋っていた人たちが、全員のグループ発表をすることになった。その長さは、やはり体験者であるから短くならない。実際に介護士として働いている人の話もあり、よくわかったことは、人生の体験ほどすばらしいものはないということだ。それがどれだけしんどくても、またそのしんどい渦中にいても、体験は貴重である。その意味では、女性の体験の法が現実的である。現場に介護をしてきたからである。性別役割分業は介護問題でも明らかである。

 グループディスカッションのなかの問題と発表で男性のことばに印象づけられたのが、「死をどう捉えるのか」というテーマであった。「死」の問題は簡単に答えられないが、次週の問題にもつながるので、わたしの意見は述べたいと思う。この世で生きることが、ほんとうに終わることである、と知ることである。それは、自分が体験することはできないが、大切な人を亡くしたことで、知る・考える「死」である。亡くなったつれあい、ネコが、わたしにとってどれだけ大切であったかは、毎日の生活に必ず出てくるからである。仕事をしている最中とか忙しいときは出てこない。しかし、仕事を終えて家へ帰るとき、「迎えに来てもらったな」「ただいまといえないな」「ひとりで食べるご飯は寂しい」とか、いろんな場面で、つれあいとネコが出てくる。それは、もう話すことも姿を見ることもできないことを突きつけられるのである。「死」とはこの世との別れであるとしみじみ思う。逝った先がどこかとか、魂があるかないかなどはまったく問題にならない。死後は生きた人、この世との別れだから、墓とか仏壇とかも何の問題にもならない。
 「死」をどう捉えるかと悩んでいらした男性への答えはこれしかない。

 生き残ったものは辛い。だけど、精一杯心残りがないように生きたい。まだ関係をもって、わたしを必要としている人がいるから。しかし、もうほとんどないか少ないかを感じているから、いつ逝ってもいいとは思う。母は、わたしより後でも問題はない。入所手続きをしているので、そういう場合は優先的に入所させてもらえる。母を残すことにはそんなに心残りがない。この感情は不思議である。責任上の母の介護をしているからだろう。もう少し考えなければならないテーマである。
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