3回目の講座は「お墓を考える」で、最終回となった。もっとも悩んでいる人が多い問題がお墓である。すでに1回目の講座後のアンケートに墓じまいの方法を質問していた人がいた。墓じまいをしなければならないと考えている人にとっては、他人事ではおれないのである。
最終回はグループディスカッションをしないで、わたしの問題提起の後、各自で今回の講座を受けたことの感想と質問を書いてもらうことにした。講座後のアンケートが送られ、質問があっても答えることができないからであるし、自分で書くことで感じたことや考えることができるかも知れないと思ったからである。
まずは、わたしの問題提起は、いつものような墓の問題である。基本的には、これまで考えたことがないと思われるが、これまでお墓にお参りしてきたことを振り返り、どういう意味があるかを問うてほしいのである。お墓があれば、あたりまえのように彼岸やお盆に、または、亡くなった人の命日にお墓参りをしているのは、なぜしてきたのか、を問うのである。こういうことを問題提起する人は少ないと思うが、わたしは根本を問うことを大切だと考える。あたりまえとしていることを考えてみることである。つまり、考えてもみなかったことを考えてみるのである。墓じまいをしなければならなくなって初めてお墓のことを考えるのではなく、根本的になぜお墓参りをするのかを考えるのである。それは、お墓を今後必要と思うか、いらないと思うか、かたちを変えたいと思うかにつながると考えるからである。そして、いらないと考えるなら、どういう理由でいらないかが、自分で納得する考えをもつことができるからである。これまで通り必要と思っても、なぜ必要かがあらためて了解できると思うからである。かたちを変えたいと思うなら、どんなかたちにしたいかも、そしてそのときどんな方法があるかも模索できるからである。
そういうふうに考えて、お墓の形式などを提起するなら、根本的なお墓の問題を考えられると思う。それはまた、遺骨をどう考えるかにつながると思うのである。遺骨についても根本的に考えたことが多くの人はないと思うからである。収骨をあたりまえにし、納骨をどうするかの手順でしか考えないと、根本的な問題に向き合うことができない。そうした思考方法は、ある意味、思考停止であるから、これまでのしきたりや慣習を引き継ぐことになってしまう。しきたりや慣習とされたことを根本的に考えることによって、どこに問題があり、どのようにしていけばよいかの方向性が見えてくるのではないかと思う。「おかしい」と気づいたとしても、すぐには自分ができないかもしれない。次世代に送ることになってしまうかもしれない。しかし、根本的に考えることで、次世代へつなぐ場合も、何も考えないでそのままつなぐよりも、少しは異なってくるのではないだろうか。
だから、わたしは、問題提起として収骨をしなかった体験を語るのである。理由のよりどころは親鸞の思想によるが、収骨をしないなんて考えたこともない人にとっては、聞いたらショックかもしれないが、そういうことも考えられるという一つの情報を得ることになる。新たな情報を得る前に、これまでの自分がやってきたことを根本的に問うことは、大事であると思う。
アンケート集計が送られてくると思うが、楽しみである。3回は長いと思っていたが、終わってみると、あっという間の講座だった。担当者の人と話したり、受講してもらった人と話すことができなくなって、少し寂しい。
最終回はグループディスカッションをしないで、わたしの問題提起の後、各自で今回の講座を受けたことの感想と質問を書いてもらうことにした。講座後のアンケートが送られ、質問があっても答えることができないからであるし、自分で書くことで感じたことや考えることができるかも知れないと思ったからである。
まずは、わたしの問題提起は、いつものような墓の問題である。基本的には、これまで考えたことがないと思われるが、これまでお墓にお参りしてきたことを振り返り、どういう意味があるかを問うてほしいのである。お墓があれば、あたりまえのように彼岸やお盆に、または、亡くなった人の命日にお墓参りをしているのは、なぜしてきたのか、を問うのである。こういうことを問題提起する人は少ないと思うが、わたしは根本を問うことを大切だと考える。あたりまえとしていることを考えてみることである。つまり、考えてもみなかったことを考えてみるのである。墓じまいをしなければならなくなって初めてお墓のことを考えるのではなく、根本的になぜお墓参りをするのかを考えるのである。それは、お墓を今後必要と思うか、いらないと思うか、かたちを変えたいと思うかにつながると考えるからである。そして、いらないと考えるなら、どういう理由でいらないかが、自分で納得する考えをもつことができるからである。これまで通り必要と思っても、なぜ必要かがあらためて了解できると思うからである。かたちを変えたいと思うなら、どんなかたちにしたいかも、そしてそのときどんな方法があるかも模索できるからである。
そういうふうに考えて、お墓の形式などを提起するなら、根本的なお墓の問題を考えられると思う。それはまた、遺骨をどう考えるかにつながると思うのである。遺骨についても根本的に考えたことが多くの人はないと思うからである。収骨をあたりまえにし、納骨をどうするかの手順でしか考えないと、根本的な問題に向き合うことができない。そうした思考方法は、ある意味、思考停止であるから、これまでのしきたりや慣習を引き継ぐことになってしまう。しきたりや慣習とされたことを根本的に考えることによって、どこに問題があり、どのようにしていけばよいかの方向性が見えてくるのではないかと思う。「おかしい」と気づいたとしても、すぐには自分ができないかもしれない。次世代に送ることになってしまうかもしれない。しかし、根本的に考えることで、次世代へつなぐ場合も、何も考えないでそのままつなぐよりも、少しは異なってくるのではないだろうか。
だから、わたしは、問題提起として収骨をしなかった体験を語るのである。理由のよりどころは親鸞の思想によるが、収骨をしないなんて考えたこともない人にとっては、聞いたらショックかもしれないが、そういうことも考えられるという一つの情報を得ることになる。新たな情報を得る前に、これまでの自分がやってきたことを根本的に問うことは、大事であると思う。
アンケート集計が送られてくると思うが、楽しみである。3回は長いと思っていたが、終わってみると、あっという間の講座だった。担当者の人と話したり、受講してもらった人と話すことができなくなって、少し寂しい。