自分らしいお葬式やお墓を考えましょう。

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葬送と家族

2019-04-30 08:58:25 | 日記
 葬送にかんする諸事情は、家族と切り離せない問題です。わたしは、ほんとうによい家族に恵まれたと思います。よい家族というのは、わたしの考えと同じか、または違っていても考えを変えさせないということです。例えば、わたしは収骨しないとつれあいと決めていて、実際につれあいが亡くなったとき、収骨しなかったのです。彼が亡くなることなど考えていなかったときに、すでにわたしの考えをわたしの家族に伝えました。家族といっても母と弟です。どちらも反対はしなかったです。母は賛成、弟は姉貴らしいといい、親鸞像の下にものすごく大きな遺骨を入れる場所をつくっているから拾ってもいいといったのです。
 終活について、年代が上がるにつれ、自分のこととして考える人が増えたことは、すごくいいことだと思います。しかし、自分の考えと家族の考えが違う場合は、なかなか大変だと思います。先日、講座の後に相談を受けました。一生懸命自分の終活を考えている人だったので、その通りになればいいなと、聞きながら思ったのです。一生懸命自分のことや今後のことを考える人の方法は、これまでの方法と違う場合がしばしばおこります。彼女の場合もそうでした。夫とも違い、息子さんとも違っていました。夫はもう仕方がないと諦めていらしたが、息子さんにはわかってほしいという想いが強くあったのです。
 これまで通り、つまり世間が認めるやり方を主張する息子さんに対して、彼女は違うのです。個人情報になると思うので、具体的に書くことができませんが、例えば、息子さんがこれまで通りの葬儀を主張するのに対して、彼女は家族葬という具合です。この違いはあまり大きくありませんが、違いはあります。彼女の場合はもう少し大きな違いが息子さんとの間にありました。
 話を聞きながら、夫婦だから親子だからといって、同じ考えをもつとは限りません。その場合、どうすかは大きな課題です。どちらが先に逝くかはわかりませんが、子の立場としては、親の思いを実現させることが親を安心させることになると思います。終活の問題でどうしても譲れない問題は、どこまで話し合ってもダメなのかと思いました。生きているときの関係をつくることがいかに難しいかを実感します。
 それでも、その人の話を聞きながら思ったのは、これまでの親子関係は終活の問題で初めて出てきたのではないのではと思ったのです。そこまで聞く時間がなかったのですが、いろいろな問題で衝突をしながら、よい親子関係をつくることができなかったのではないかと思ってしまいました。確認がとれていないので、いうわけには生きませんが、子の立場からして、親の考えは、終活の問題に限らず、よい関係をつくっていればおよそわかるのではないでしょうか。終活だけで衝突するとは思われません。
 普段の問題、つまり、それぞれの生き方は違いがあっても当然ですし、それをお互いが認めることができるかの問題につながると思います。親子の考えが違う場合、親も子の生き方を認め、子も親の生き方を認めるのは、ほんとうに難しいことだと実感させられた相談でした。
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お経の翻訳について

2019-04-24 10:51:19 | 日記
 「朝日新聞」のしばらく前の「声」欄に特集され、投稿者は義兄の一周忌をお寺で行ったので、参列した。住職だと思われるが、投稿には「和尚様」と書いてあったがその和尚様のお経が始まり、独特の発声と節回しは荘厳な雰囲気を出していたそうである。しかし、投稿者は不満が残ったという。お経の意味がわからず、中身が空虚に感じられたという。そこで、お寺にお願いしたいこととして、読経前に内容の趣旨説明をするか、お経を現代語訳にしてほしいとのことである。
 その投稿に対して4人の投稿と高台寺の執事長のコメントが載っている。一人目の人は葬儀にお坊さんは不要だという。実際弟さんの葬儀はお坊さんを呼ばず、友人や家族らのことばで送ったそうです。二人目は僧侶であり、お経を翻訳すべきは僧侶がやるべきであり、仏教を通していろいろの話をすべきという。3人目は寺に生まれた女性で、生まれてからずっとお経を聞いていたが、住職である父親がその説明をしなかったが、意味は全部わかったという。4人目は、お経はわからないからありがたいという意見である。
 コメントを出した執事長は、縁のある寺へ行って坊さんと対話し、仏像をみてほしいとのこと。形からのほうが入りやすいこともあるそうです。

 さあ、みなさまはどういうふうに考えますか。

 わたしはお経の意味は絶対に必要だと思います。そのための現代語訳は必要かもしれませんが、僧侶、研究者による解説本が出ているので、自分で勉強しようと思えばできると思っています。自分で勉強するのが嫌な人はそれこそ、自分の知り合いのお坊さんでもいいし、檀家であるなら檀那寺の住職に聞いたらいいと思います。お経は釈尊が説いた仏教を経典作者が釈尊の弟子として記したものです。直接の弟子ではなく、時間が経っていますが、自らの仏弟子として釈尊の教えをこのように聞いたとして記します。だから、お経の意味は必ず知る必要があります。意味がわからなくてもそのまま聞いていて「ありがたい」というところまで感じるのは、お経だけでしょう。わたしはお経をそんなふうには受け取りません。
 意味を知らないですますことのほうがおかしいと思います。関心がないなら、それでいいでしょう。葬儀や法事にお坊さんを呼ぶことをよしとするなら、その場で読誦されるお経に関心をもってもよいのではないでしょうか。これまで、お経の意味を知らなくてもその場が終わればそれでよしとしてきた日本人があまりにも多いと思います。仏教に関心をもたない人の多さを感じます。仏教徒になることとは別だと思いますが、お経の内容を知らないままにするのは、よくないと思います。

 読経は形式です。各宗派によって読誦の仕方がそれぞれ違いますし、同じ宗派の同じお経でも楽曲が異なります。読誦は、現代語訳ではなく、漢訳の原典を読むべきだと思います。
 個人的に感動した読誦は、プライベートですが、弟が住職になるときの読誦に涙が出ました。きちんと習い、築地本願寺で何年間か勤めた後、初めて聞いたのです。正調という感じがしたのです。それまでの父の読経が父流(自己流)になっていると思いました。
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NHKの「所さん大変ですよ」「終活」最前線から

2019-04-09 11:20:15 | 日記
 テレビ番組で放映される「終活」にかんする番組は丁寧に確認しているつもりです。それでも確認漏れがあるのですが、気がつかなかった番組を録画して送ってくださったお知り合いがいます。知り合いなのに、これだけ丁寧に書く理由は、まだお会いしたこともないからです。昨年11月末から今年2月にかけての「東本願寺事件」(わたしがこのように読んでいるのですが、詳しいことを知りたい方は、ネットで大谷派 人権週間ギャラリー展 2月シンポジウムの用語で検索してみてください。朝日新聞の記事が出てきます)のシンポジウムが終わった後、わたしの意見に賛同して、東本願寺へ「抗議文」を送ってくださった方です。最初に送られたところが間違っていたため、メール交換をするようになった方です。
 長い前置きになったのですが、送ってくださった番組は、「棺が家に届いた!?」というテーマです。「終活」の準備に元気なときに棺を買い求め、家に棺がおいてあるのです。生前準備は棺だけではなく、別の人は、骨壺を自分で焼いているのです。つくった骨壺が大きすぎて、妻も二いっしょに入ってくれと頼んでいたのです。番組では妻が喜んでいっしょに入ると答えていたのですが、日本の多くの妻が死んでからも夫といっしょにお墓に入りたくないという声をずいぶん聞いてきました。また、遺影も今のうちに撮ってもらうというので、華やかなドレスにあう化粧をしてもらっていました。
 スタジオ内に棺を用意し、高いものから安いものまでを並べ、実際若い女性のアナウンサーが入ってみます。棺を買い求めた人は、瞑想するのにいいといっていましたが、アナウンサーは落ち着くといっていました。

 わたしは番組を見ながら、生前準備がすべてお金がある人ができることだと思いました。実際の金額をNHKがいうわけはありませんが、それぞれがそんな安いわけではありません。お金のない人の生前準備はどうしたらいいのかは、まったく抜け落ちていると思いました。
 わたしの友人は、わたしの本を読んで、自分の母親の葬儀を一切自分で行い、葬儀社に頼まないことを決めました。読経は知り合いの僧侶がいるので頼むことにしましたが、妹に相談しないでしたことが後、問題になってしまいました。棺をインターネットで頼んだからです。7000円だったそうです。妹がそれを知って怒りまくり、それだけは許さないということで、葬儀社に頼んだのです。3万円という高い値段になり、友人は怒っていましたが、事前に妹にじっくり話したらわかってもらえたかもしれないと残念そうでした。

 生前準備がお金をかけずにできること、それは関係者とじっくり死後のことを話すことだと思います。納得がいく生前準備が関係者とできることは、お金の問題も必ず出てくることだし、妥協しないで話し合えば、お金も納得するでしょう。それには、自分はどんな死後のことをしてもらいたいかを元気なときに考えることです。それは、まさに生きることにつながります。
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ペットの葬送

2019-04-06 08:40:32 | 日記
 ペットの葬儀はすでにあたりまえになっています。次に問題になっているのが、ペットと同じお墓に入りたいということです。
 日本のペットとしての犬・猫は推計で約1850万匹だそうです。わたしも猫を飼っているので、その数字に驚きません。身近の人も何人も犬か猫を飼っています。犬派・猫派といろいろありますが、家族と同じ考えというのは、わたしにもわかります。
 さて、ペットの葬儀を人間並みにし、ペットといっしょのお墓に入りたいということをどう考えたらいいのでしょうか。
 新聞報道(『朝日新聞』4月5日付)によると、自分の墓の隣に猫の墓をつくりたいと申し出たが、菩提寺から断られた話が多いというのです。
 そこで、寺院側がこの問題をどう考えたらよいかを講座としてもち、「ペットは往生できるのか」が、テーマだったといいます。「念仏を称えられない動物はそのままでは往生できない」という考えと「供養すれば往生できる」というふたつの考えに分かれたというのです。

 ペットがこうした問題になるとはだれも想像したこともなく、仏教側も考えなければいけなくなる時代が来るとは、ほんとうに信じられないことです。
 さて、みなさまはどうお考えですか。

 わたしも猫を飼ってもう17年近くになります。以前に住んでいた一階のベランダで子どもを産んだ親猫が、シャム猫ほどのいい猫でしたが、捨てられたらしく、しっかり子育てをしていなかったのを見かねたつれあいが家で飼おうといいだしたのです。二人が拘束されるので、だいぶ反対したのですが、もともと猫が好きだし、つれあいの「このままでは死んでしまう」というひとことで飼うことになって猫です。つれあいが過保護といわれるほど猫中心の生活に変化しました。
 それから、このマンションに引っ越ししてからもいっしょの生活であり、家族同様だと思っています。しかし、過保護は猫に洋服を着せたり、こちらの都合で呼ぶことはありません。彼女が必要なときには呼ぶからです。エサがほしいときと遊んで(かまって)ほしいときです。それは猫らしくすごくはっきりしています。歳をとったこの頃は、とくにそれが明らかであり、寝ていることが多くなったので、寝ているときに声をかけても見向きもしません。
 この猫が亡くなるときのことは、亡くなったつれあいと話をしておきました。市役所に引き取ってもらうということです。家族みたいな存在であることは間違いはありませんが、ペットはペットです。人間の葬式もしなくてもよい、遺骨も拾わないと考えている二人が、ペットの葬儀や遺骨を拾うなど考えられないからです。
 ペットの葬送を考える前に、人間の葬送を考えるほうが先だと思います。しかし、お墓にいっしょに入りたい人は、入ってもいいし、それを断るなんて考えられません。その理由が明らかであり、その人の「自由」は認めるべきだと思います。
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