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新型コロナウィルス

2020-04-27 11:33:21 | 日記
 また新型コロナウィルスによって著名人岡江久美子さんが亡くなりました。岡江さんだから、テレビで報道され、特別番組をつくってもらうことができます。著名人の死は多くの影響をもたらすと思います。なかなか自分事にならないコロナウィルスも、「あの人がなるなら、自分におこっても不思議ではない」感覚を持てます。
 死に目に会えない、亡くなったあとも火葬までの時間をずっと傍らにいることができない、ないないづくしのコロナウィルスによる死を、わたしたちは初めて知ることができました。あまりにも早い、心の準備もできないままの死を家族がどう受け止めていくのか、ほんとうに辛いことだと痛感します。
 わたしの友人が、「ガンはエリートの死」だといったことがあります。余命を宣告されてから、死への準備ができるからが理由です。彼女自身がくも膜下の体験があり、うまく生還できたのですが、あのまま亡くなっていたかもしれないという思いが、そう言わせたのです。確かに死への準備ができます。わたしのつれあいもそうでした。
 本人もそうですが、家族も心の準備もできるのです。傍らにいる家族にとっては辛いことですが、本人が一番辛いことを知りながらも、残されるものの心の準備ができます。
 コロナウィルスはそうはいきません。本人もコロナウィルスの病名を知らないままだって、これまでに何人もあったことでしょう。志村さんも岡江さんももしかしてそうだったかもしれません。こんなことがおこるなんて、だれもが想像もしなかったコロナウィルスの死です。ニュースで「無言の帰宅」として遺骨が、他の人の手によって戻ってくることをだれが想像したでしょうか。玄関先で初めて妻の遺骨を手にした大和田獏さんの気持ちはいかばかりだったのでしょう。娘さんはその場に来ることさえできなかったです。
 著名人ではない人も多くが亡くなっています。多くの人が家族をもっているのでしょう。同じ思いをしながら、遺骨を迎えたのでしょう。ひとりひとりのことはニュースにはならないけど、亡くなった人の数だけ同じ思いをした家族がいると思うと、コロナウィルスがこれまでの病気とは違うことを思います。
 だれもが死ぬ存在であり、そういう死に対しては平等かもしれませんが、亡くなり方はそれぞれ全員が違います。どんな亡くなり方をするのかを意味づけること仏教ではどのようにいってきたのか、もう一度考えたいと思います。これまでの仏教は、「宿業」といってきたと思います。わたしは「宿業」では納得いかないです。「宿業」を再度調べると同時に、わたしが納得する意味とは何なのか、受け入れられるものは何なのかを考えたいです。
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新型コロナウィルスの葬送

2020-04-20 11:13:33 | 日記
 志村けんさんの新型コロナウィルスによる死は、日本中、否海外にまで大きなショックをもたらしました。新型コロナウィルスと分かってから、その死があまりにも早かったこともあります。それだけではなく、彼の笑いに多くの人が笑ってきたからです。単なる著名人ではないところが大きいと思います。わたしも「カーラス、なぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ」と、つい口に出るくらいです。
 彼の死後、どんな大きなお葬式が行われるかと、みなが想像したと思います。彼の関係者はもちろんですが、一般の人の参拝も予想されたはずです。
 先日、身内だけの葬儀が終わったと報道されました。
 彼の死は、わたしたちに新型コロナウィルスで亡くなると、死に目にも会えないこと、死に顔も見ることができないこと、火葬場にも行けないことなど、多くのことを知らせたのです。大事な人を見舞うことができないつらさは、想像するだけで理解できますし、自分がそんな目に遭ったらどうするか考えがまとまりません。
 それだけ新型コロナウィルスが怖いものであることを示しています。

 志村けんさんの死から、いろいろ学びました。大切な人には会っておかねばと思ったのです。死に目や死後ではなく、元気なときに会っておきたいと強く思いました。
 ところが、新型コロナウィルスは、それを阻んでいます。会いたい人に会えないのです。わたしは、どうしても会っておきたい人がこのときによく分かりました。会えないことによって、それがはっきりと分かるのです。だいたいは分かっていたのですが、さらに明確になりました。
 では、今できること、連絡し合うことです。メールや電話が簡単にできる時代です。新型コロナウィルスという脅威によって人が出会えないことをおこさせるのですが、まだましな時代に生きていると思います。
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新型コロナウィルス

2020-04-05 09:12:57 | 日記
 新型コロナウィルるが脅威をふるい、世界中を震撼とさせています。最高のコメディアンだった志村けんさんの死は、その意味でものすごい影響力をもったのでしょう。マンションの管理人さんが、その明くる日、電車に乗ったら、自分ひとりがマスクをしていなくてどうしようかと思ったといっていました。その前日までは電車のなかでマスクをしていない人を多く見たのに、一夜にしてこの状況に変わるのかと、改めて志村けんさんの影響力の高さに驚いていました。
 日本政府の対応のまずさ、マスクの配布などを知ると、政府がいかにしっかりしていないのか、感じてしまいます。正しい情報の提供、このときに政府がしなければならないことがきちんとわたしたちに伝わってこないのです。
 こうした状況を戦争中に似ていると何人かから聞いたことがあります。もちろん体験をした人を含めてです。
 その発言を受けて、今回の状況を考えてみました。
 当時、「日本は戦争に勝つ」を当然のように流しているし、終盤に至ったとき、「ほんとうにこの戦争は勝てるのか」と不安に思った人もいたでしょうに、信じなければ非国民になるわけですから、表向きの装いを周囲の人に合わせていたのでしょう。周囲に合わせることは、大きな流れに任すことになります。戦争のために日本国民が一体感をもったわけでもないのに、非国民といわれないために、同調勢力になっていったのだと思います。
 同調勢力になりやすいのは、戦争のときだけではなく、日本人にとっては、そうなりやすい支配勢力下に置かれていたということができるのでしょう。
 少し前になりますが、幕藩体制下の支配は、まさに世間を作り、同じ身分同士が相手を見張るというシステムのなかにいました。それは同調勢力をつくり、「個」の確立を阻む「みんなといっしょ」をつくるものでした。支配しやすい体制をつくることになったのです。身分制が確固たるものになったのも同調勢力に与しやすくなったのは、いうまでもないでしょう。
 さらに、近代以降の天皇制によって、身分制はいちおう解消したというものの、支配権力の強力さをつくっていきました。国家という体制に準じる日本人です。村単位は、近世から引き継いでいますが、その上に「日本人」の自覚がつくられていき、アジアで日本がトップというおかしな自負さえ植えつけられていったのです。天皇を「現人神」に仕立て上げて信じさせることができたのは、ある意味で、簡単に統治できる、支配できる体制を整えたということでしょう。「カミ」を信じやすい日本人がうまく利用されたといってもよいのでしょう。
 戦争は天皇のために、国家のために戦うことと同義になるのも簡単でした。「個」の確立を阻む最大の装置こそ、天皇制だったのです。「個」の確立は、自分で情報を知り、その情報をもとに自分で考え行動することです。デマを信じないことです。

 では現在、新型コロナウィルスの情報を正しく受け止めることができているのかといえば、そうはいえないでしょう。政府にも問題がありますが、買い占めの実態を見ていると、例えば、トイレットペーパーは足りるほどあるという情報があるのに、なぜ店頭から消えたのでしょうか。まだ少しだけ残っていたわたしもどうしようかと悩みましたが、なんとか入手することができました。しかし、いまだに東京のスーパーにはトイレットペーパーが店頭にないそうです。デマを信じるのか自分だけ困るのは怖いと思うのか、同調勢力になっていることは事実です。
 こういう危機感の募るとき、同調勢力にならず、正しい情報のもとで行動できるのは、どうしたらよいのでしょう。
 わたしは、信頼できる情報を入手できる人間関係だと思います。昨日や今日でできるものではありませんが、常日頃からつくる人間関係がいかに大切かを、今回の新型コロナウィルスの恐怖にさらされながらも思います。正しい情報に基づき、自分で考え、信頼できる友人と共有しながら、行動したいものだと思います。
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