また新型コロナウィルスによって著名人岡江久美子さんが亡くなりました。岡江さんだから、テレビで報道され、特別番組をつくってもらうことができます。著名人の死は多くの影響をもたらすと思います。なかなか自分事にならないコロナウィルスも、「あの人がなるなら、自分におこっても不思議ではない」感覚を持てます。
死に目に会えない、亡くなったあとも火葬までの時間をずっと傍らにいることができない、ないないづくしのコロナウィルスによる死を、わたしたちは初めて知ることができました。あまりにも早い、心の準備もできないままの死を家族がどう受け止めていくのか、ほんとうに辛いことだと痛感します。
わたしの友人が、「ガンはエリートの死」だといったことがあります。余命を宣告されてから、死への準備ができるからが理由です。彼女自身がくも膜下の体験があり、うまく生還できたのですが、あのまま亡くなっていたかもしれないという思いが、そう言わせたのです。確かに死への準備ができます。わたしのつれあいもそうでした。
本人もそうですが、家族も心の準備もできるのです。傍らにいる家族にとっては辛いことですが、本人が一番辛いことを知りながらも、残されるものの心の準備ができます。
コロナウィルスはそうはいきません。本人もコロナウィルスの病名を知らないままだって、これまでに何人もあったことでしょう。志村さんも岡江さんももしかしてそうだったかもしれません。こんなことがおこるなんて、だれもが想像もしなかったコロナウィルスの死です。ニュースで「無言の帰宅」として遺骨が、他の人の手によって戻ってくることをだれが想像したでしょうか。玄関先で初めて妻の遺骨を手にした大和田獏さんの気持ちはいかばかりだったのでしょう。娘さんはその場に来ることさえできなかったです。
著名人ではない人も多くが亡くなっています。多くの人が家族をもっているのでしょう。同じ思いをしながら、遺骨を迎えたのでしょう。ひとりひとりのことはニュースにはならないけど、亡くなった人の数だけ同じ思いをした家族がいると思うと、コロナウィルスがこれまでの病気とは違うことを思います。
だれもが死ぬ存在であり、そういう死に対しては平等かもしれませんが、亡くなり方はそれぞれ全員が違います。どんな亡くなり方をするのかを意味づけること仏教ではどのようにいってきたのか、もう一度考えたいと思います。これまでの仏教は、「宿業」といってきたと思います。わたしは「宿業」では納得いかないです。「宿業」を再度調べると同時に、わたしが納得する意味とは何なのか、受け入れられるものは何なのかを考えたいです。
死に目に会えない、亡くなったあとも火葬までの時間をずっと傍らにいることができない、ないないづくしのコロナウィルスによる死を、わたしたちは初めて知ることができました。あまりにも早い、心の準備もできないままの死を家族がどう受け止めていくのか、ほんとうに辛いことだと痛感します。
わたしの友人が、「ガンはエリートの死」だといったことがあります。余命を宣告されてから、死への準備ができるからが理由です。彼女自身がくも膜下の体験があり、うまく生還できたのですが、あのまま亡くなっていたかもしれないという思いが、そう言わせたのです。確かに死への準備ができます。わたしのつれあいもそうでした。
本人もそうですが、家族も心の準備もできるのです。傍らにいる家族にとっては辛いことですが、本人が一番辛いことを知りながらも、残されるものの心の準備ができます。
コロナウィルスはそうはいきません。本人もコロナウィルスの病名を知らないままだって、これまでに何人もあったことでしょう。志村さんも岡江さんももしかしてそうだったかもしれません。こんなことがおこるなんて、だれもが想像もしなかったコロナウィルスの死です。ニュースで「無言の帰宅」として遺骨が、他の人の手によって戻ってくることをだれが想像したでしょうか。玄関先で初めて妻の遺骨を手にした大和田獏さんの気持ちはいかばかりだったのでしょう。娘さんはその場に来ることさえできなかったです。
著名人ではない人も多くが亡くなっています。多くの人が家族をもっているのでしょう。同じ思いをしながら、遺骨を迎えたのでしょう。ひとりひとりのことはニュースにはならないけど、亡くなった人の数だけ同じ思いをした家族がいると思うと、コロナウィルスがこれまでの病気とは違うことを思います。
だれもが死ぬ存在であり、そういう死に対しては平等かもしれませんが、亡くなり方はそれぞれ全員が違います。どんな亡くなり方をするのかを意味づけること仏教ではどのようにいってきたのか、もう一度考えたいと思います。これまでの仏教は、「宿業」といってきたと思います。わたしは「宿業」では納得いかないです。「宿業」を再度調べると同時に、わたしが納得する意味とは何なのか、受け入れられるものは何なのかを考えたいです。