「ふぇみん」の記事の3回目です。
4回目は、4月に掲載されることになりました。
3月は休みです。
葬式・収骨の選択肢
葬儀は戦後、変化した。葬儀社の出現により葬儀社主導になったこととコロナ禍の影響で家族葬が急増したことにある。葬儀をしない直葬が2022年に約11%になり、2015年の約6%から倍増しているが、まだまだ葬儀をするのがあたりまえである。
焼香順のジェンダー
現在行われている葬儀の宗教形式は仏式がもっとも多く、2010年代には90%を超えていたといわれる。
宗教の信者数と葬儀形式が比例しないのは日本の宗教事情による。信者数では神道系は全人口の48.5%、仏教系46.4%、キリスト教系1.1%、諸教4.0%であり、総人口の約1.5倍になる(『宗教年鑑』2021年度版)。その内実を「信仰」といってもよいのだろうか。
一方、葬儀の種類は変化している。2015年には一般葬が約60%だったが、2022年には家族葬が約56%になり、一般葬は約26%に減少している(鎌倉新書、2022)。コロナ禍の影響である。しかし、家族葬といいながら、実態は一般葬のかたちで行われているものが多い。2023年に友人が亡くなり会葬したが、会葬者は一般葬と変わらなかった。ただ案内には「家族葬で行う」とあった。友人であるわたしは不思議な思いで参列した。
通夜・葬儀で行われる焼香順について、ジェンダー不平等が残っていることを感じる。年配の男性が亡くなると妻が喪主になるのが一般的になってきた。しかし、寺の葬儀には第一子男性(長男)が喪主になっている場合が多いし、地方でもそのようなケースをみることがある。妻が喪主の場合の焼香順は、妻のあとに子どもが行うが、生まれた順ではなく、男性のきょうだいが優先され、女性は後回しがいまだに多い。
「市」を考える
2016年に死んだつれあいの葬儀は、当時まだ一般的ではなかった直葬にした。直葬とは葬儀を行わないで直接火葬にすることをいう。元気なときから二人で話し合い、葬儀社主導の葬儀そのものをいらないと考え、葬儀社に伝えた。怪訝に思われたが、彼が参列してほしい人だけを呼び、棺の前でそれぞれが彼とのことを語り、別れの時間をたっぷりととった。
この国に住むわたしたちは、葬儀・収骨をそもそもの意味を考えてこなかったといえるだろう。慣習に則り、葬儀・収骨をするのをあたりまえにしてきた。それは、死の問題を考えてこなかったことに通じると思う。どこで死にたい、だれに看取ってもらいたい、死後何を着たい、戒名(法名)はどうしたい、葬儀はどの形式にしたい、葬儀にはだれに参列してほしい、遺骨をどうしてほしい、墓はどうしてほしいなどなど、存命中に考えておかなければならないことは山ほどある。わたしたちは、それを怠ってきたのではないだろうか。「死」にまつわることを考えることは、わたしの人生をどのように生きるかに通じると思う。
4回目は、4月に掲載されることになりました。
3月は休みです。
葬式・収骨の選択肢
葬儀は戦後、変化した。葬儀社の出現により葬儀社主導になったこととコロナ禍の影響で家族葬が急増したことにある。葬儀をしない直葬が2022年に約11%になり、2015年の約6%から倍増しているが、まだまだ葬儀をするのがあたりまえである。
焼香順のジェンダー
現在行われている葬儀の宗教形式は仏式がもっとも多く、2010年代には90%を超えていたといわれる。
宗教の信者数と葬儀形式が比例しないのは日本の宗教事情による。信者数では神道系は全人口の48.5%、仏教系46.4%、キリスト教系1.1%、諸教4.0%であり、総人口の約1.5倍になる(『宗教年鑑』2021年度版)。その内実を「信仰」といってもよいのだろうか。
一方、葬儀の種類は変化している。2015年には一般葬が約60%だったが、2022年には家族葬が約56%になり、一般葬は約26%に減少している(鎌倉新書、2022)。コロナ禍の影響である。しかし、家族葬といいながら、実態は一般葬のかたちで行われているものが多い。2023年に友人が亡くなり会葬したが、会葬者は一般葬と変わらなかった。ただ案内には「家族葬で行う」とあった。友人であるわたしは不思議な思いで参列した。
通夜・葬儀で行われる焼香順について、ジェンダー不平等が残っていることを感じる。年配の男性が亡くなると妻が喪主になるのが一般的になってきた。しかし、寺の葬儀には第一子男性(長男)が喪主になっている場合が多いし、地方でもそのようなケースをみることがある。妻が喪主の場合の焼香順は、妻のあとに子どもが行うが、生まれた順ではなく、男性のきょうだいが優先され、女性は後回しがいまだに多い。
「市」を考える
2016年に死んだつれあいの葬儀は、当時まだ一般的ではなかった直葬にした。直葬とは葬儀を行わないで直接火葬にすることをいう。元気なときから二人で話し合い、葬儀社主導の葬儀そのものをいらないと考え、葬儀社に伝えた。怪訝に思われたが、彼が参列してほしい人だけを呼び、棺の前でそれぞれが彼とのことを語り、別れの時間をたっぷりととった。
この国に住むわたしたちは、葬儀・収骨をそもそもの意味を考えてこなかったといえるだろう。慣習に則り、葬儀・収骨をするのをあたりまえにしてきた。それは、死の問題を考えてこなかったことに通じると思う。どこで死にたい、だれに看取ってもらいたい、死後何を着たい、戒名(法名)はどうしたい、葬儀はどの形式にしたい、葬儀にはだれに参列してほしい、遺骨をどうしてほしい、墓はどうしてほしいなどなど、存命中に考えておかなければならないことは山ほどある。わたしたちは、それを怠ってきたのではないだろうか。「死」にまつわることを考えることは、わたしの人生をどのように生きるかに通じると思う。
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