ゆうとたいへ

六十を過ぎて始めた自転車旅行、山登りをつづります

2022年5月25日 「椰子の実」 島崎藤村 <意訳> 

2022-05-25 | これから大きくなるひとへ
220525_島崎藤村_椰子の実_意訳

2022年5月25日 

「椰子の実」 島崎藤村 <意訳>

むこうの浜辺に椰子の実が一つ流れ着いている
名前も聞いたことがないような遠い島から来たんだろう

「いったいおまえは、生まれた島の岸を離れてから、どのくらいさまよっていたんだい?」
「おまえが生(な)っていたという椰子の木はまだ残っているのかい?」
「その幹はまだ元気で、地上に影をつくっているのかい?」
「おまえが波を枕にしていたように、おれも、土を枕にするような流浪の旅だよ」

椰子の実を手に取って胸に当ててみれば、
帰るところがなく、世をさまよっている自分の、
忘れていた哀(かな)しみが、また胸にこみあげてくる

太陽が水平線に沈んでゆく
それを見ていると涙があふれてきてとまらない

沖の方から数えきれない波が来る
いったい、いつになったらふるさとに帰れるのだろうか?
以上

2020年7月27日 平川祐弘『夏目漱石 非西洋の苦闘』に登場する夏目漱石

2020-07-27 | これから大きくなるひとへ
200727_平川祐弘『夏目漱石 非西洋の苦闘』

 夏目漱石は、1900年から1902年の間、イギリス・ロンドンに留学した。
 この時、自分が黄色人種だということについて、ひどい劣等感をもつようになった。

 ・・・・
 
 平川祐弘『夏目漱石 非西洋の苦闘』講談社、より
 
 p.30

 そうしてだんだん孤立していった瀨石は、ロンドンにおける自分自身の状況を明治三十四年(1901年)の『断片』では次のように説明した。
 このべらんめい口調には自嘲の念がうすら寒いほどにじみ出ている。

 「我々はポツトデの田舎者のアンボンタンの山家猿(やまがざる)のチンチクリンの土気色(つちけいろ)の不可思議ナ人間デアルカラ、西洋人から馬鹿にされるは尤(もっとも)だ。
 加之(しかのみならず)彼等は日本の事を知らない。
 日本の事に興味を持って居らぬ。
 故ニ、我々が西洋人に知られ、尊敬される資格が有つても、彼等が之を知る時間と眼がなき限りは、尊敬とか恋愛とかいふ事は両方の間に成立たない」
 
 以上

2020年7月8日 阿川尚之氏「コロナ後の社会を担う若い世代へ」と吉田松陰の「留魂録」

2020-07-08 | これから大きくなるひとへ
200708_阿川尚之氏「コロナ後の社会を担う若い世代へ」と吉田松陰の「留魂録」

 阿川尚之氏の「コロナ後の社会を担う若い世代へ」は、2020年7月6日付け産経新聞より引用、
吉田松陰の「留魂録」は、奈良本辰也『日本人の旅人15 吉田松陰』p.141より引用


一、阿川尚之「コロナ後の社会を担う若い世代へ」

<前段、略>

 しかしコロナ後の世界が大きく変わるとしても、
変わらない、変えてはいけないこともあるはずだ。

世の中が変化に対応しょうと前のめりになっているのには、
多少の違和感がある。

 コロナであろうとなかろうと、人は多くの原因で毎日死んでいく。
2018年の統計によれば、日本人の年間死亡者数はがんが37万4千、
心疾患が20万8千、老衰、脳血管疾患、肺炎がそれぞれ10万前後。

ただしこれらの病気や事故は感染せず、
死者の90%近ぐが65歳以上である。

そのため大多数の人は個別の死を特段強く意識しなかつた。

人格、地位、年齢などに関係なく、
人が突然感染して死んでしまうという点でコロナは衝撃的であるが、
死は本来平等に訪れる。

歳をとれば順番に死ぬ。
この認識が、古来曰本人の死生観、宗教観を形成してきた。

 感染が多少落ち着いた今、人々はまた忙しくなりつつあり、
恐怖を忘れかけている。

ちなみに「忙」と「忘」という漢字は、
どちらも「心」と人の死を意昧する
「亡」という字の組み合わせからできている。

 若い人たちには、コロナ危機の経験から、
教科書では学べない多くのことを吸収し考えてほしい。

今元気でいることの大切さ。
変わらぬ伝統や記憶を受け継いで次の
世代に伝えることの重要性。

将来悲しく辛いことが起きても、
「強くあれ。雄々しくあれ。
恐れてはならない。おののいてはならな
い」(旧約聖書「ヨシユア記」)と古代の人が若者を励ましていること。

以上




二、奈良本辰也『日本人の旅人15 吉田松陰』p.141

 吉田松陰は、処刑の前日、『留魂録』を書いて残した。

 (その時、吉田松陰は、数えで30歳、満で29歳であった)

・・・・

私(奈良本辰也)は、五所川原に行く途中で松陰の『留魂録』の言葉を思い出していた。
死罪が決まって、それが明日執行されるという前の日に書かれたこの文章を、
私は素晴らしいものと思つているのだが、その中に、次のような一節がある。

・・・・

 『留魂録』より

 今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。

  〔私は、今日、死刑を言い渡されたが、なにか、心の中では落ち着いたという気持ちだ。
  というのは、わたしにも「四時の循環」の最後の時が巡ってきたからだ〕

 蓋し彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。

  〔農業の収穫を例に取れば、春種をまき、夏植え、秋収穫し、冬それを蓄える〕

 秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り醴をつくり、村野歓声あり。

  〔秋・冬になれば、人は皆、作物の収穫を悦び、酒を造り、あま酒を造り、農村では歓声が聞こえる〕

 未だ曽て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを閬かず。

  〔私は、いまだかって、取り入れに臨んでその収穫を悲しんだという話を聞いたことがない〕

 吾行年三十。

  〔私は今年、数えで30歳になった〕

 一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむに似たり。

  〔仮に、一つも成果を残せずに、死んでゆくならば、死にたくはないだろう〕

 然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ悲しまん。

  〔しかし、私はいま短い人生において、実りのときだ。なんで悲しむ必要があろうか〕

 何となれば人寿は定まりなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。

  〔何となれば、人間の寿命は決まっていない。農作物のように必ず春夏秋冬のように定められた長さの時を経る、というはない〕

 十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。

  〔十歳で亡くなる者には、その短い生涯の間に「春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す」があるのだ〕

 二十は自ら二十の四時あり。

  〔二十歳で亡くなる者にも、二十年で巡る四時があるのだ〕

 三十は自ら三十の四時あり。
  
 五十・百は自ら五十・百の四時あり。

 十歳を以て短しとするは蟪蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。

  〔十歳の人生は短いではないか、という人がいるとすれば、それは「蟪蛄」(ケイコ、「セミ」のこと〕に、「霊椿」(「レイチン」古木となり霊が宿った椿)のように長生きをせよ、というに等しい〕

 百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。

  〔百歳は長すぎるという者は、古木の椿に対し、セミのように短く生きよ、というに等しい〕

 斉しく命に達せずとす。

  〔どちらも、天命を全していない〕

 義卿三十、四時已に備はる。亦秀で実る。

  〔私は、数えで30歳となった。もうすでに四時(春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す)は終わっている。収穫もあったと思う〕

 其の秕たると其の粟たると吾が知る所に非ず。

  〔それが、秕(シイナ。からばかりで実のないもみ)か、栗のように実が入っているものであるかは、私の知り得るところではない。

  ー私がいなくなった後、後世の人が判断してくれるだろうー〕

 以上


2019年9月17日 白取春彦編訳『ニーチェ 勇気の言葉』より

2019-09-17 | これから大きくなるひとへ
190916_白取春彦編訳『ニーチェ 勇気の言葉』

2019年9月17日 
図書館で、白取春彦編訳『ニーチェ 勇気の言葉』という本を見つけた。

ここに載っている「ことば」は、
自分では思いつかないが、
言われてみると「そうだ」ということばだ。

まず自分のために、それからこれが
役に立つ人もいると思うので、ここに残しておこう。

p.9

人間というのは
間違った評価をされるのが
ふつうのことだ。

自分が思うように、
自分が望むように
評価してくれることなんか
ほとんどない。

自分の評判や評価など
気にしてはいけない。
他人がどう思っているか
なんてことに関心を向けては
絶対にいけない。

p.18

人から信じてもらいたければ、
言葉で自己を強調するのではなく、
行動で示すしかない。
しかも、のっぴきならない状況での
真摯な行動のみが、
人の信に訴えるのだ。

p.22

不機嫌になる大きな理由の一つは、
自分のなしたこと、
自分の産んだことが
人の役に立っていないと感じることだ。

したがつて、いつも機嫌よく生きていくこつは、
人の助けになるか、誰かの役に立つことだ。

そのことで自分という存在の意味が実感され、
これが純粋な喜びになる。

p.33

一日をよいスタートで始めたいと思うなら、
目覚めたときに、この一日のあいだに
少なくとも一人の人に、
少なくとも一つの喜びを与えて
あげられないだろうかと思案することだ。

p.38

職業はわたしたちの生活の背骨になる。
背骨がなければ、人は生きて行けない。
仕事にたずさわることは、
わたしたちを悪から遠ざける。
くだらない妄想を抱くことを忘れさせる。
そして、こころよい疲れと
報酬まで与えてくれる。

p.49

今のこの人生を、
もう一度そっくりそのまま
くり返してもかまわないという
生き方をしてみよ。

p.51

この人生を簡単に、そして
安楽に過ごしてゆきたいというのか。

だったら、常に群れてやまない
人々の中に混じるがいい。
そして、いつも群衆と一緒に
つるんで、ついには
自分というものを
忘れ去って生きてゆくがいい。

p.57

死ぬのは決まっているのだから、
ほがらかにやっていこう。
いっかは終わるのだから、
全力で向かっていこう。
時間は限られているのだから、
チャンスはいつも今だ。
嘆きわめくことなんか、
オペラの役者にまかせておけ。

p.58

何か創造的な事柄に
あたるときにはもちろん、
いつもの仕事をする場合でも、
軽やかな心を持っていると
うまくいく。

それはのびのびと飛翔する心、
つまらない制限など
かえりみない自由な心だ。
生まれつきのこの心を
萎縮させずに保っているのが望ましい。

そうすれば、
さまざまなことが
軽々とできる人になれるだろう。

p.60

いつもの自分の生活や仕事の中で、
ふと振り返ったり、
遠くを眺めたときに、
山々や森林の連なりや
はるかなる水平線や地平線といつた、
確固たる安定した線を
持っていることは
とてもたいせつなことだ。

それらは単なる
見慣れた風景にすぎないかもしれない。
けれども、その風景の中にある
しつかりと安定した線が、
人間の内面に落ち着きや充足、
安堵や深い信頼というものを
与えてくれるからだ。

p.67

「ああ、もう道はない」と思えば、
打開への道があったとしても、
急に見えなくなるものだ。

「危ないっ」と思えば、
安全な場所はなくなる。

いずれにしても、
おじけづいたら負ける、
破滅する。

相手が強すぎるから、
事態が今までになく困難だから、
状況があまりにも悪すぎるから、
逆転できる条件がそろわないから
負けるのではない。

心が恐れを抱き、
おじけづいたときに、
自分から自然と
破滅や敗北の道を選ぶように
なつてしまうのだ。

p.76

車に櫟かれる危険が最も大きいのは、
一台目の車をうまくよけた直後だ。

同じように、仕事においても
日常生活においても、
問題やトラブルをうまく処理して
安心から気をゆるめたときにこそ、
次の危険が迫っている可能性が高い。

p.79

あなたが誰かをだましたりすると、その人は悲しむ。
だまされたことで何か損を受けたから、
その人は悲しんでいるのではない。

その人がもうあなたを信じ続けられない
ということが、その人を深く悲しませているのだ。
今までのようにあなたをずっと信じていたかった
からこそ、悲しみはより深くなるのだ。

p.80

他人をあれこれと判断しないこと。
他人の値踏みもしないこと。
人の噂話もしないこと。
あの人はどうのこうのと
いつまでも考えないこと。

そのような想像や考えを
できるだけ少なくすること。

p.86

他人を見るときは、
その人の高さを見るように。
その人の低劣な面や
表面上のことばかりが見えるのなら、
自分がとても良くない状態に
なっている証拠だ。

それは、誰かの低さばかり
見ることによって、
自分が愚かで努力していない
ことに目をつむり、
自分はああいう人間よりは高いのだと
思いたがっていることになるからだ。

p.91

雑踏の中へ入れ。人の輪の中へ行け。
みんながいる場所へ向かえ。
みんなの中で、大勢の人の中で、
きみはもっとなめらかな人間になり、
きっちりとした新しい人間になれるだろう。

孤独でいるのはよくない。
孤独はきみをだらしなくしてしまう。
孤独は人間を腐らせてだめにしてしまう。
さあ、部屋を出て、街へでかけよう。

p.97

きみはそんなことに責任をとろうとするのか。
しかし、それよりも自分の夢の実現に
責任をとったらどうだろう。

夢に責任をとれないほど弱いのか。
それとも、きみには勇気が足らないのか。

きみの夢以上に、
きみ自身であるものはないのに。

夢の実現こそ、
きみが持っている精一杯の力で
なすべきものではないのか。

p.100

悪とは何か。
人をはずかしめることだ。
最も人間的なこととは何か。
とんな人にも恥ずかしい思いをさせないことだ。

そして、人が得る自由とは何か。
どんな行為をしても、
自分に恥じない状態になることだ。

p.103

学び、知識を積み、知識を今なお教養と知恵に
高め続けているような人は、退屈を感じなくなる。
あらゆる事柄が以前にもまして
いっそう興味深くなってくるからだ。

彼にとっては、世界は興味の尽きない対象となる。
植物学者がジャングルの中にいるようなものだ。

p.108

きちんと考える人に
なりたいのであれば、
最低でも次の三条件が必要になる。

人づきあいをすること。
書物を読むこと。情熱を持つこと。
これらのうちのどの一つを欠いても、
まともに考えることなど
できないのだから。

p.114

自分を試練にかけよう。
人知れず、自分しか証人のいない試練に。

たとえば、誰の目のないところでも正直に生きる。
たとえば、独りの場合でも行儀よくふるまう。
たとえば、自分自身に対してさえ、一片の嘘もつかない。

そして多くの試練に打ち勝ったとき、
人は本物の自尊心を持つことができる。

p.153

友達にするなら、
仕事熱心なやつにしなよ。

働き者は人として
ちゃんとしてるのが多いからな。
また、仕事が好きだというのは
コッがすぐ呑みこめる才能を
持ってるからだし、
集中力があるのさ。

そういうやつは周りから
信頼されているものだ。

仕事に打ち込んでないやつは
からきしだめだ。

口では大きなことを言って、
仕事を転々としてるやつも
あまりよくないな。

そういうやつは暇なもんだから、
あらぬ妄想を事実のようにして
吹聴したり、人のことを
悪くばかり言ってるもんだ。

ひどいときには
人の問題にまで当然のように
口を差し挟んでくる厄介者さ。

以上

2019年8月29日 佐佐木信綱は、童謡「夏は来ぬ」を、20代の時に作詞した

2019-08-29 | これから大きくなるひとへ
190829_佐佐木信綱は、童謡「夏は来ぬ」を、20代の時に作詞した

2019年8月28日 産経新聞 p.7
 
 童謡「夏は来(き)ぬ」は、1900年(明治33年)、初めて歌唱集に掲載された。

 作曲は、小山作之助(さくのすけ)。
 小山作之助は先に、曲を作った。
 この曲につける歌を、佐佐木信綱(当時20代)に依頼した。

 佐佐木信綱の歌、「夏は来ぬ」

一、
卯(う)の花の匂う垣根に
時鳥(ホトトギス)
早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす
夏は来ぬ

二、
五月雨(さみだれ)のそそぐ山田に
早乙女(さおとめ)が
裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる
夏は来ぬ


卯の花


時鳥(ホトトギス):渡り鳥。夏に日本に来る


忍音(しのびね):ほととぎすが、その年、最初に鳴くころの鳴き声。声をひそめて鳴く。

五月雨(さみだれ):田植えの時期に降る長雨。梅雨。

早乙女:


裳(も):腰から下に巻くもの

玉苗(たまなえ):


以上