200825_洞爺丸海難事故
2020年8月24日の産経新聞に、1954年の洞爺丸事故について書いてある。
洞爺丸事故というのは、函館港から青森港を目指し出航した「洞爺丸」の海難事故である。
自分なりにまとめ(Wikiを利用した)経緯を書いてみる。
・・・・
1954年9月26日未明、台風15号は九州南部に上陸。
1954年9月26日15時、台風15号は、青森県西方約100キロメートルの位置にあった。
中心気圧968ミリバール、時速110kmで北東に進んでおり、その後17時頃渡島半島を通過して津軽海峡にもっとも接近すると予想されていた。
1954年9月26日、洞爺丸は青森港から函館港に到着しており、つぎの予定は14時40分発、青森港行きの航海であった。
洞爺丸の近藤平市船長は、三等運転士の頃から気象には関心が強く、自ら天気図を書いて船長や一等運転士に見せて回っていたことから「天気図」のあだ名があったとされる。
当日は本来の洞爺丸船長が休暇を取得したため、交代で乗務していた。
近藤船長は、台風のコースは、函館へ接近する前に陸奥湾に入り、青森に到着する見通しを立てていた。(つまり、台風の中心は青森に向かう本船の東側・太平洋よりを通過する、と考えていた)
12時40分頃
青森へ向かっていた渡島丸(貨物専用船)は、津軽海峡の中央付近にいた。
その船から連絡が入る。
「風速25メートル、波8、うねり6、動揺22度」。
波8:波浪階級8、波の高さ9~14m。
動揺22度:動揺20度を超すと何かにつかまっていなと立っていられない。
後続の第六青函丸・第十一青函丸は海峡にさしかかったところで運航を中止して引き返した。
この日は、函館市内で断続的に停電が発生していた。
連絡船は、出航するためには、船尾の可動橋(車両を船に載せるための橋)を揚げる必要があるが、停電のため、揚げられなくなり、出航することができなくなった。
15時10分、停電と台風接近のため、洞爺丸は、出発を中止した。
しかし、停電はすぐに回復した。
洞爺丸が、この時、すぐに出航していれば、無事、青森に着いたと言われている。
実際、14時40分に青森港を出港した十勝丸は、18時50分、函館港外に停泊している。
17時頃
函館では土砂降りの後に、風が収まり晴れ間ものぞき台風の目が通過したことを思わせた。しかし、これは台風の目ではなく、偶然の「晴れ間」であった。台風はまだ函館の南方にあった。
台風の速度から見て天候の回復は早いものになるとみて、海峡の気象状況を検討した結果、自身の気象判断に絶対の自信を持っていた近藤平市船長は出航を決断。
17時40分頃、出航時刻を18時30分とすることを発表した。
一方、羊蹄丸の船長は風が弱くなったのは台風の目に入ったことに由ると見て、羊蹄丸は出航を延期。結果として沈没を免れている。但し、これは台風の目ではなく実際には偶然の晴れ間であったと考えられている。
18時25分頃
洞爺丸は昇橋(ブリッジを上げる)したものの、引き船5隻を用いて着岸に難渋していた石狩丸が係留し終わるの待って、離岸。
18時39分、青森に向けて遅れ4便として出航した。
乗員乗客は合わせて1,337人。
出航して間もなく、南南西からの風が著しく強くなる。
函館港は天然の良港であり、地勢的に奥まっているため、通常、波浪は穏やかである。
だが、南南西の方角のみは日本海に向けて開いている。
つまり、南南西の強風が吹いた場合、日本海中部で発生した大波がまともに函館湾に進入することになる。
18時55分頃に函館港防波堤西出入口を通過する。
19時00分頃
港外に出た直後から猛烈な風浪に襲われ船長は投錨し仮泊することを決意、風下に圧流されたため西向きに針路をとったのち、19時01分に天候が収まるのを待つために函館港防波堤灯台付近の海上(真方位300度0.85海里)に投錨し仮泊。
この頃札幌管区気象台19時発表の台風情報を無線室が受信し近藤船長に届けられる。
台風の中心は、寿都(すっつ)西方50キロの海上を北北東に進行中との内容に、台風が過ぎ去ったと思い込んでいた船長は違和感を感じる。
気象台は台風の速度が急におちたことを把握しておらず、実際に寿都西方50キロに到達するのは約2時間後であった。
やがて平均40メートル、瞬間的には50メートルを超える南西方向からの暴風と猛烈な波浪のために走錨(錨をひきずったまま流されること)をはじめる。
また、船尾車両搭載口より進入した海水が車輌甲板に滞留し、水密が不完全な構造だった車輌甲板からボイラー室、機関室への浸水が発生し、蒸気ボイラーへの石炭投入が困難になった(洞爺丸は粉末化した石炭を人力でボイラーに投入していた)。
20時30分頃
車両甲板上へ奔入する海水量の増加と船体の動揺により、作業員は甲板からの引上げを余儀なくされる。
開口部から機関室や缶室(ボイラー室)などへの浸水は進み、発電機は次々に運転不能となるとともにビルジ(船底に溜まる汚水のこと)の排出もできなくなり、21時50分頃左舷主機、22時5分頃右舷主機が運転不能となった。
両舷主機の停止で操船の自由を失った洞爺丸は沈没を避けるため、遠浅の砂浜である七重浜への座礁を決め、22時12分頃、「機関故障により航行不能となったため七重浜に座礁する」と乗客に報じた。
22時15分
船長は旅客に救命胴衣を着用するよう事務長に対して指示を出した。
22時26分頃
海岸まであと数百メートルの函館港第三防波堤灯柱付近の地点(267°、0.8海里、距岸約0.6海里、水深12.4m、底質砂)において、後部船尾が3回ばかり軽く撞触(どうしょく、接触)し座礁、船体は右舷に45度傾斜。
乗組員は座礁によって転覆の危険は回避されたと考え、乗客にもその旨アナウンスしたが、実際は船体が安定せず波浪によってさらに右傾斜を増していった。座礁の報告を受けて青函鉄道管理局(青函局)は救難本部の設置を決定。補助汽船4隻(いずれも150トン程度)を現場に向わせるが波浪激しく断念。
22時39分
SOSを発信する。
しかし陸上の関係者は、このSOSは座礁したことによって発信されたものであると理解しえず。
この後、沈没にまで至ることを予想することはできなかった。
打電された地点の水深は海図上では12mある(洞爺丸の喫水は5m)ことから座礁自体が想像できないことであり(波浪のため海底に砂が堆積していたと思われる)、ましてや座礁して着底している船舶がさらに横倒しになるとは、想像できなかった。
22時43分頃
船体を支えていた左舷錨鎖が耐えきれず切断した。
この時点で復原力を失っていたとされるが、船底の横揺れ防止フィン(ビルジキール)が乗り上げた海底の砂に刺さったためであるともいわれている。
この時大波を受けて横倒しとなり、満載した客貨車の倒れる轟音とともに横転した。
機関停止後もボイラーは最後まで焚火(ふんか)を続け、船内は沈没5分前まで点燈していた。
22時45分頃
函館港防波堤灯台付近の地点(337°、2500m)に右舷側に約135度傾斜し沈没。
最後には船体がほぼ裏返しで海底に煙突が刺さった状態になったといい、この洞爺丸だけでも乗員乗客あわせて1155人が死亡または行方不明となった。
以上
2020年8月24日の産経新聞に、1954年の洞爺丸事故について書いてある。
洞爺丸事故というのは、函館港から青森港を目指し出航した「洞爺丸」の海難事故である。
自分なりにまとめ(Wikiを利用した)経緯を書いてみる。
・・・・
1954年9月26日未明、台風15号は九州南部に上陸。
1954年9月26日15時、台風15号は、青森県西方約100キロメートルの位置にあった。
中心気圧968ミリバール、時速110kmで北東に進んでおり、その後17時頃渡島半島を通過して津軽海峡にもっとも接近すると予想されていた。
1954年9月26日、洞爺丸は青森港から函館港に到着しており、つぎの予定は14時40分発、青森港行きの航海であった。
洞爺丸の近藤平市船長は、三等運転士の頃から気象には関心が強く、自ら天気図を書いて船長や一等運転士に見せて回っていたことから「天気図」のあだ名があったとされる。
当日は本来の洞爺丸船長が休暇を取得したため、交代で乗務していた。
近藤船長は、台風のコースは、函館へ接近する前に陸奥湾に入り、青森に到着する見通しを立てていた。(つまり、台風の中心は青森に向かう本船の東側・太平洋よりを通過する、と考えていた)
12時40分頃
青森へ向かっていた渡島丸(貨物専用船)は、津軽海峡の中央付近にいた。
その船から連絡が入る。
「風速25メートル、波8、うねり6、動揺22度」。
波8:波浪階級8、波の高さ9~14m。
動揺22度:動揺20度を超すと何かにつかまっていなと立っていられない。
後続の第六青函丸・第十一青函丸は海峡にさしかかったところで運航を中止して引き返した。
この日は、函館市内で断続的に停電が発生していた。
連絡船は、出航するためには、船尾の可動橋(車両を船に載せるための橋)を揚げる必要があるが、停電のため、揚げられなくなり、出航することができなくなった。
15時10分、停電と台風接近のため、洞爺丸は、出発を中止した。
しかし、停電はすぐに回復した。
洞爺丸が、この時、すぐに出航していれば、無事、青森に着いたと言われている。
実際、14時40分に青森港を出港した十勝丸は、18時50分、函館港外に停泊している。
17時頃
函館では土砂降りの後に、風が収まり晴れ間ものぞき台風の目が通過したことを思わせた。しかし、これは台風の目ではなく、偶然の「晴れ間」であった。台風はまだ函館の南方にあった。
台風の速度から見て天候の回復は早いものになるとみて、海峡の気象状況を検討した結果、自身の気象判断に絶対の自信を持っていた近藤平市船長は出航を決断。
17時40分頃、出航時刻を18時30分とすることを発表した。
一方、羊蹄丸の船長は風が弱くなったのは台風の目に入ったことに由ると見て、羊蹄丸は出航を延期。結果として沈没を免れている。但し、これは台風の目ではなく実際には偶然の晴れ間であったと考えられている。
18時25分頃
洞爺丸は昇橋(ブリッジを上げる)したものの、引き船5隻を用いて着岸に難渋していた石狩丸が係留し終わるの待って、離岸。
18時39分、青森に向けて遅れ4便として出航した。
乗員乗客は合わせて1,337人。
出航して間もなく、南南西からの風が著しく強くなる。
函館港は天然の良港であり、地勢的に奥まっているため、通常、波浪は穏やかである。
だが、南南西の方角のみは日本海に向けて開いている。
つまり、南南西の強風が吹いた場合、日本海中部で発生した大波がまともに函館湾に進入することになる。
18時55分頃に函館港防波堤西出入口を通過する。
19時00分頃
港外に出た直後から猛烈な風浪に襲われ船長は投錨し仮泊することを決意、風下に圧流されたため西向きに針路をとったのち、19時01分に天候が収まるのを待つために函館港防波堤灯台付近の海上(真方位300度0.85海里)に投錨し仮泊。
この頃札幌管区気象台19時発表の台風情報を無線室が受信し近藤船長に届けられる。
台風の中心は、寿都(すっつ)西方50キロの海上を北北東に進行中との内容に、台風が過ぎ去ったと思い込んでいた船長は違和感を感じる。
気象台は台風の速度が急におちたことを把握しておらず、実際に寿都西方50キロに到達するのは約2時間後であった。
やがて平均40メートル、瞬間的には50メートルを超える南西方向からの暴風と猛烈な波浪のために走錨(錨をひきずったまま流されること)をはじめる。
また、船尾車両搭載口より進入した海水が車輌甲板に滞留し、水密が不完全な構造だった車輌甲板からボイラー室、機関室への浸水が発生し、蒸気ボイラーへの石炭投入が困難になった(洞爺丸は粉末化した石炭を人力でボイラーに投入していた)。
20時30分頃
車両甲板上へ奔入する海水量の増加と船体の動揺により、作業員は甲板からの引上げを余儀なくされる。
開口部から機関室や缶室(ボイラー室)などへの浸水は進み、発電機は次々に運転不能となるとともにビルジ(船底に溜まる汚水のこと)の排出もできなくなり、21時50分頃左舷主機、22時5分頃右舷主機が運転不能となった。
両舷主機の停止で操船の自由を失った洞爺丸は沈没を避けるため、遠浅の砂浜である七重浜への座礁を決め、22時12分頃、「機関故障により航行不能となったため七重浜に座礁する」と乗客に報じた。
22時15分
船長は旅客に救命胴衣を着用するよう事務長に対して指示を出した。
22時26分頃
海岸まであと数百メートルの函館港第三防波堤灯柱付近の地点(267°、0.8海里、距岸約0.6海里、水深12.4m、底質砂)において、後部船尾が3回ばかり軽く撞触(どうしょく、接触)し座礁、船体は右舷に45度傾斜。
乗組員は座礁によって転覆の危険は回避されたと考え、乗客にもその旨アナウンスしたが、実際は船体が安定せず波浪によってさらに右傾斜を増していった。座礁の報告を受けて青函鉄道管理局(青函局)は救難本部の設置を決定。補助汽船4隻(いずれも150トン程度)を現場に向わせるが波浪激しく断念。
22時39分
SOSを発信する。
しかし陸上の関係者は、このSOSは座礁したことによって発信されたものであると理解しえず。
この後、沈没にまで至ることを予想することはできなかった。
打電された地点の水深は海図上では12mある(洞爺丸の喫水は5m)ことから座礁自体が想像できないことであり(波浪のため海底に砂が堆積していたと思われる)、ましてや座礁して着底している船舶がさらに横倒しになるとは、想像できなかった。
22時43分頃
船体を支えていた左舷錨鎖が耐えきれず切断した。
この時点で復原力を失っていたとされるが、船底の横揺れ防止フィン(ビルジキール)が乗り上げた海底の砂に刺さったためであるともいわれている。
この時大波を受けて横倒しとなり、満載した客貨車の倒れる轟音とともに横転した。
機関停止後もボイラーは最後まで焚火(ふんか)を続け、船内は沈没5分前まで点燈していた。
22時45分頃
函館港防波堤灯台付近の地点(337°、2500m)に右舷側に約135度傾斜し沈没。
最後には船体がほぼ裏返しで海底に煙突が刺さった状態になったといい、この洞爺丸だけでも乗員乗客あわせて1155人が死亡または行方不明となった。
以上