190528_チェスタトンの現代用語辞典
100年前のへそ曲がりが、おまえに残したことば
「『チェスタトンの現代用語辞典』」春秋社 1988年」より
・・・・
チェスタトンとは、今から百年前のイギリスの作家だ。
この作家はへそ曲がりだ。
へそ曲がりといってもバカにするな。
お前もへそ曲がりなのだから。
・・・・
伊藤守『今日を楽しむための100の言葉』第3巻より
29.
自分のことを正直に話したら、
弱味を握られるか、
馬鹿にされるか、
鼻で笑われるか.
友だちがいなくなるか、
だいたい、このうちのどれかが起こります。
それだけですから。
・・・・
人間は、おろかに思われる正直者か、
おろかに思われないよう、へそ曲がりになるしかない。
・・・・
「チェスタトンの現代用語辞典」
多分、この本に書いてあることを、書いてある通りの文章で紹介すると、あなたは理解できなので、あなたに理解できるようにわかりやすく書き換えました
・・・・
p.12
金持
芝居には、すべての芝居に共通する前提がある。
それは登場人物がすべて金持ちだということだ。
普通の人は、一日を人並に働いてその日の糧(かて)をかせぐという、一日もゆるがせにできない大問題をかかえているため、性だの結婚だの性格の不一致だの、些末なことがらに関ずらわっている時間はない。
p.18
軽佻浮薄(パー)
過去の「奇跡」を調べた科学者達は、偉大な聖人には「空中浮遊」の能力があったという。
天使たちが、空中を浮遊できるのは、自分のことを軽く、つまり軽佻浮薄(パー)と考えるからだ。もし、天使たちが自分のことを、くそまじめに重々しく考えるなら、すぐ地上に落ちてしまうだろう。
p.19
健全
石の床に寝る修道士は、川べりを散歩する謹厳(きんげん)な紳士より健全だ。
なぜなら修道士は、自分のこころに悪をみとめて、それで心がいじけているにすぎない。
p.21
思想
思想は危険である。
思想がもっとも危険を及ぼすのは、頭の中に思想を持たない人に対して、である。
あたかも、ブドウ酒が、ブドウ酒を飲んだことのない人に対して、害を及ぼすように。
p.23
自慢
人格をそう傷つけない自慢とは、自分自身にはまったく名誉とならないようなものについての自慢である。
自分の国を自慢することも、祖先を自慢することもそう害にならない。
しかし、財産を自慢することは害になる。
財産よりもっと高尚なもの、つまり知恵を自慢するのはなお悪い。
さらに、地上でもっとも尊いもの、善を自慢するのは、一番悪い。
p.26
自由な考え
自由な考えの持ち主とは、過去とか未来から解き放たれた人だ。
「なにがあったか」、「何があるだろうか」ではなく、「なにが今あるべきか」と考える人である。
p.30
真の姿
人間の真の姿を描きたければ、ただ一人の人間が、砂漠の砂の上にいるところを描けばよい。
彼はただ一人でいる限り、人類のすべてを表している。
そこにもう一人を加えると、その絵は、より人間的になるのではない。
より人間的でなくなる。
p.37
正統(昔から行われてきた習慣)
正統には、鈍重で、単調で、安全なものというイメージがある。
しかし、私(チェスタトン)は、正統ほど危険で、興奮に満ちたものは無いと思う。
時代の先端を行く狂人となるのは容易である。
異端者となるのも容易である。
時節の波に流されるのも容易である。
しかし、自説を曲げずに貫き通すのは容易ではない。
p.40
善
現代人は言う。
「こんな勝手に決められた基準は捨てて、自由を持とうではないか」
これを言い換えると「何が善であるかを決めないことにしよう。それを決めないことを善としよう」となる。
また、「宗教にも道徳にもこの民族の希望はないよ。希望は教育だ」という。
これを言い換えると「我々は何が善であるか決められないが、とにかくそれを子供たちに与えることにしよう」となる。
p.51
時計の針
現代人がよく使うことばに「時計の針は戻せない」というものがある。
それに対する私(チェスタトン)の回答は、「戻せる」である。
時計の針は、人間が作った機械である以上、戻せる。
同様に、社会も人間が作ったものである以上、戻せる。
p.57
光
かりに街で何か大きな騒動が持ち上がったとしよう。たとえばガス灯の柱を倒そうとする騒動でもよい。
その騒動の最中、中世の灰色の衣をまとった古風な修道士があらわれ、この問題に意見を求められたとしよう。
修道士は「兄弟たちよ、まず光の価値を考えようではないか。光は・・」と話はじめたが、短気な群衆は修道士を殴り倒し、ガス灯を倒してしまった。
群衆がガス灯を倒した理由は、あるものはガス灯の代わりに電灯をつけてもらいたかったからだし、あるものはくず鉄が欲しかったからだし、あるものは単にむしゃくしゃしていたからだ。
夜になると彼らの中で争いが起き、お互いに喧嘩を始めた。暗くて一体だれがだれをなぐっているのかわからなかった。
かくして、皆の心には、翌日には確実に知ることとなる「結局は、修道士の光の哲学が正しかった」という考えが起きた。
ガス灯があれば、ガス灯の明かりのもとで論じあえたはずのことを、今は暗闇のなかで論じ合わなければならないのである。
p.60
文明
人並の頭をもつ男にこう聞いた。
「君は野蛮より文明のほうがいいか?」
男は答えた。
「いや、それはつまり、そこにあるその本箱とか・・・バケツに入っている石炭とか・・・それからピアノもあるし・・・それに警察とか、そういうものがあるから・・・」
文明を弁護しようとする者は、文明が複雑きわまりないということを証明しているようなものだ。
p.65
未来
人は、「そのうちにやる」という街に逃げ込み、「いまはいそがしくてできない」という宿屋に泊まる。
そこで、まだ生まれてもいない子供と遊ぶのは楽しいものだ。
p.68
野生的
本物の動物は皆、家庭的である。動物はみな飼いならすことができる。
人間だけが非家庭的で、野生的だ。
p.70
隣人
われわれは友だちをつくる。敵もつくる。
しかし、「隣人」は神がつくる。
神は、恐怖と災害をおこし、人間に「隣人」を必要とさせる。
宗教は、人類に対するつとめではなく、隣人にたいするつとめを教える。
p.71
歴史
歴史を学ぶ最大の理由は、過去のあるものからどうして現在の姿になったかを学ぶことではない。
過去のあるものが、出来上がってしまった現在の姿以外に、どういう別のものになった可能性があるかを、学ぶことである。
しかしこれは永久に分からない問題である。
p.76
いちばん大事なもの
私(チェスタトン)は、すわって、チョークでこんなものを書いていたら、チョークを一本、全部使ってしまった。
〔p.77画像。チェスタトン自作〕
あわててポケット全部を裏返してみたが、ひとかけらのチョークもなかった。
どっかの町に、チョークなんか売っている店があるのだろうかと、心配になった。
その時、私は腹を抱えて笑ってしまった。
なんと私が座っていた山が、チョークの材料である石膏でできた山だったのだ、
想像してみるがいい。
サハラ砂漠にいる男が、砂時計に入れる砂がないと心配している姿を。
海の真ん中にいる男が、化学実験のための食塩水を持ってくるのを忘れたと、悔やんでいる姿を。
p.78
おとぎ話
私(チェスタトン)の最初にして最後の哲学は、おとぎ話だ。
それを子供部屋で子守りから学んだ。
当時最も深く信じたもの、そして今も最も深く信じているものは、おとぎ話だ。
おとぎ話は空想ではない。
おとぎ話に比べれば、ほかの一切のものの方こそ空想的である。
おとぎ話に比べれば、宗教も合理主義もともに極めて異常である。
宗教は異常に正しく、合理主義は異常に間違っている。
おとぎの国とは、陽光に輝く常識の国にほかならない。
p.81
おもちゃ
おとながおもちゃで遊ばない理由はただ一つ、それは、ほかの何よりも時間と面倒を必要とするのだ。
私(チェスタトン)の新聞記者としての仕事は、金をかせいでくれるが、なにもかせがないあの仕事のように、恐ろしい一途な熱心さで営まれることはない。
p.83
確信
人は、確信というものを持てるや否や。
私(チェスタトン)は持てると思う。
例えば、「緑」色というものが無ければ「緑」という「ことば」はなかった。
おなじように、「確信」をいだくということが一切なかったのであれば、「確信」ということばは生まれてこなかったはずだ。
確信ということばがあることは、「確信をもつ」ということもありうる、ということを説明している。
p.92
潔癖
潔癖性は、悪い方に分類したばあい、悪い性格の中では、そうひどくない性格だ。
しかし、これを良いほうに分類すると、最悪のものとなる。
p.107
信じる
仮に、何かを完全に信じ切っていたとしよう。
その理由を説明するのは難しい。
半分しか信じていない場合は、簡単だ。
半分しか信じていないというのは、数で数えられる信ずる理由があり、個別にその理由を話せるからだ。
p.141
女性
ご主人を盛り立てようとする奥さんがたも、ご主人との個人的な関係においては、相手の弱点を恐ろしいほどに見透かしている。
信じることに引けを取らない女性はまた、批判することにかけても誰にも引けをとらない。
p.144
性格の不一致
もしアメリカ人が、「性格の不一致」という理由で離婚できるものなら、アメリカ人全部が離婚することになるだろう。
私(チェスタトン)は、仕合せな結婚はたくさん知っているが、一致した結婚なぞ見たこともない。
p.145
正しい人生
昔、みんなは、ほんとうに正しい人生とは何かと考え、苦しんでいた。
ところが今は、このような問題に対する回答はないという結論に達してしまった。
われわれが今していることといえば、見た目にはっきり危険とわかる場所に、「近寄るべからず」という立札を二、三本立てておくことぐらいだ。
p.146
小さな悩み
肉親の不幸にあった気の毒な夫人に、なぐさめの言葉をかけた。
「大きな悲しみでも、それを乗り越え、りっぱに生きている人が大勢います。こころがくじけそうになるのは、かえって小さいなやみなんです」
それに対し、夫人はこう答えた。
「その通りです。私にはその小さななやみが十もあるんです」
p.150
ロマンティック
手紙を投函することと結婚することは完全にロマンティックな事柄で、今、残された数少ないものである。
あるものが完全にロマンティックであるためには、取り返しがつかない、ということがどうしても必要なのだ。
p.152
戯曲
神は一篇の詩というより、一篇の戯曲を書いた。
書かれた戯曲は完ぺきだったが、しかし実際の上演は当然人間の俳優や演出家に任せねばならぬ。
そして俳優や演出家は、この完璧な戯曲を無茶苦茶にしてしまった。
p.156
現代小説
昔のおとぎ話では、主人公は尋常な少年で、この少年を驚かすのは、彼の出会う異様な事件だ。
ところが現代の心理小説では、主人公の方が異常だ。
異常な主人公は、異常な出来事にあっても一向にびっくりしない。
そんな小説は平板きわまりないもとのなる。
竜の群れの中に人間が迷いこめば話になるが、竜の群れの中に竜が迷いこんでも話はつまらない。
おとぎ話が問題にするのは、正気の人間が狂気の世界でなにをするかだ。
現代のまじめくさったリアリズム小説が描くのは、そもそも気ちがいである男が、味気のない世の中でいったい何をするか、ということだ。
p.167
イエスの生涯
イエスの生涯は、いなづまのように早く、真一文字だった。
なによりもまず、かれにはなすべきことがあった。
イエスが、かりに世界中を永遠にさまよっていたら、かれのなすべきことというのは、なされなかった。
p.168
神のドラマ
キリストが生まれたとき、かれは、世界と同じ高さの舞台ではなく、人々が見下ろすような低い舞台にいた。
その当時、いたるところ田園生活者達には、失望の夕闇と黄昏の残照が落ちかかっていた。
その時、誰も耳にしてはいないが、重畳(ちょうじょう)たる山の彼方で、はるかな声が未知のことばで呼ばわっていた。
牧人が、自分たちの牧者を見つけたのだ。
p.173
ゲッセマネ
神自身が神に反逆した神を、ほかに見つけることは決してできまい。
神自身が無神論者の孤独を語った神は一つしか見当たるまい。
神自身が一瞬間、無神論者に見えた宗教は一つしかない。
・・・・
〔キリストは、ゲッセマネ(処刑場の近く)で「神よ、神よ、なぜ私をみすてられたのですか」と叫んだ〕
p.189
ヨーロッパよりもアメリカで、資本主義文化はたやすくはこびこまれた。
ヨーロッパには層の厚い農業文化があったが、アメリカにはなかった。
以上