ゆうとたいへ

六十を過ぎて始めた自転車旅行、山登りをつづります

2020年11月29日 「ばっぱさん」と「うるち」

2020-11-29 | 日記
201129_「ばっぱさん」と「うるち」

 私の生まれたところは東北地方の太平洋岸の農村だった。

 その農村は、海の近くにあり、田んぼは干拓によって造りだされた土地で、海面よりも低かった。
 ここにいた時期は私が三歳の頃までで、幼児の頃の記憶はあまり残っていない。
 四歳の頃、小さい町に引っ越した。

 私の生まれた村は、父と母の実家のある場所であり、正月、彼岸、夏休みと年に決まった時期に親に連れられ遊びにいった。

 実家では、祖母は孫たちから「ばっぱさん」と呼ばれていた。
 「ばっぱ」では呼び捨てで失礼だから後ろに「さん」をつけたのだろう。
 いまは「ばあば」というらしい。
 
 その当時の話だが、祖母の会話の中に「うるち」ということばが何度も出てくる。
 祖母が近所の人と話しているのを聞くと、何度も「うるち」ということばを聞く。

 「うるち」というものは、祖母の話相手の人にとっては、「空」とか「海」とか「山」とかと同じように生まれたときから知っているもののようだ。

 子供が「『うるち』って何?」と質問できる雰囲気ではなかった。

 その後、大きくなってからは田舎に行くことも少なくなり、たまに田舎に行っても、もう「うるち」なんていうことばは聞かなくなった。

 「うるち」とは、我々が日常食べている「米」のことだった。
 「もち」を作る粘り気の強い品種に対し、普通の常食の米を「うるち」と言っていたのだ。

 米を「こめ」といわず、「うるち」と呼んでいたのでは、子供には分からないわけだ。

 ばっぱさんの時代には、「うるち(米)」と「もち米」を、正確に区別して話さないと会話が成り立たなかったのだろう。

2020年11月13日 レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(1966年アメリカ映画)

2020-11-13 | 日記
201113_レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(1966年アメリカ映画)

 中学生・高校生の頃(1960年代)は「SF小説」が好きだった。

 私の住んでいた町は東北の太平洋岸の小さな町で、「図書館」というようなものはなかった。それに代わるものとして公民館というものがあり、公民館の中には本棚がある部屋があり本棚には本が並んでいた。
 本棚には、(岩波文庫などはほとんどないのに)なぜか知らないが早川文庫のSFシリーズが、多分、全巻・50冊前後も並んでいた。
 中学生だった私は、宇宙探検とかロボットとかタイムマシンとか、たちまちSFの世界に引きずり込まれた。

 その時のSFの作家の内、今でも覚えている名前は「フレドリック・ブラウン」、「レイ・ブラッドベリ」だ。
 レイ・ブラッドベリの『華氏451度』という本の名前もはっきり覚えている。
 <華氏451度>という、意味不明だが何となく気になる名前が、覚えさせるのだ。
 
 それから60年が過ぎた。

 何かのきっかけで、再び『華氏451』という名前に出会った。
 図書館に、DVDがあったので、本を読むのではなくDVDで見た。
 
 <筋書>
 ある未来の架空の世界、そこでは本を読むことは禁止されていた。
 その世界での消防士の仕事は、「本」を見つけそれを焼却することであった。
 「本」は危険な、人類に災禍をもたらす存在であった。
 その世界の辺境の地には、本を丸ごと暗記しそれを口伝で伝える「語り部」のような人たちが住んでいた。

 本を焼却することに良心の呵責を覚えた小説の主人公は、消防署を脱走し、辺境の「語り部」村に逃げた。
 その村で、その村の長から命じられたことは、エドガー・アラン・ポーの『怪奇と幻想の物語』を全文暗記し、それを彼の後に来る者に口伝することであった。 
 
 この小説が書かれた1950年代は、(西側から見て)鉄のカーテンの向こう側では、スターリンがいうことを聞かない民衆を捕らえ、拷問を加えていると信じられていた時代であるから、このような小説が生まれるのも不思議ではない。

2020年11月8日 日本の脆弱な企業法制

2020-11-08 | 昼間のエッセー
201108_日本の企業法制

2020年11月5日 産経新聞
上村達男「コロナ禍と脆弱な企業法制」

 コロナ禍という危機にあたり考えた。
 企業法制の観点から株式会社の対応能力は、日本より欧州が段違いに高い。

 (欧州)厳格な配当規制を伴う法定資本・法定準備制度があり、法が企業に内部留保をすることを強制している。
 (日本)明治時代からそういう制度はあったが、過剰規制として放棄した。

 株式の払い込み剰余金は、資本準備金とされることで、バブル崩壊危機時への備えとなっている。
 こうした制度は、証券市場という暴れ馬と一体の株式会社制度運営の大失敗の記憶に基づく欧州の経験知である。

 欧州では自社株買いは原則禁止である。
 これは自社株買いの原資である余剰資金の社外流失を防ぐためである。
 
 ところが、日本は、自社株買いを許可した。

 ドイツでは新規国債発行の上限は、憲法で定めがある。GDPの0.35%である。

 欧州では、
 カネがあるから「株式を買えた」というだけの(単に金持ちの)株主に与えられるのは、「配当金」受領権のみである。

 人間社会の在り方を左右する議決権は、株主の素性の検証なしには与えられない。

 株価が安ければ、カネで会社を買収できるというアメリカ的発想は、日本の企業社会を蝕んでいる。

以上