山浦玄嗣『イエスの言葉 ケセン語約』文春新書2011年
-思わず笑っちゃう「聖書」のケセン語(岩手のことば)訳-
「聖書」の、いわば礼服をまとったような文章も、
岩手のことばに訳せば、まさに日本の土着の宗教のように思える。
これを訳した山浦玄嗣(はるつぐ)さん(昭和15年生まれ)という方は
東北大学医学部を出られたお医者さんで、
なんと、聖書を翻訳するためギリシャ語を勉強され、
ギリシャ語からケセン語に訳されたという。
且つ、聖書に書かれた土地を見に、
何度もエルサレムなどに行ったというから、驚きだ。
日本人の中で、ギリシャ語を知り、岩手方言を知り、
且つ、キリストの活動した土地を調べに行った、この山浦さんに、
ケチを付けられる人はそういないのではないか。
どうしてこの翻訳を読むと、イエスの言っていることが、
日本土着の宗教のように感じられるのか?
ちょっと、翻訳を読んでもらえれば、すぐわかります。
では、紹介しましょう。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」
翻訳:
「さあ、心(こゴろ)ォスッパリ切り換(ゲ)ァろ!
神さまのお取(ど)り仕切(しギ)りァ 今まさに此処(こゴ)にある!」
「わたしは、道であり、真理であり、命である」
翻訳:
「俺ァ、人ォ 本当の幸せに導(みぢび)ぐ。
俺ァ、人ァ 本当に幸せになる なり方(ガだ)ァ教(おせ)える。
俺ァ、人ォ 幸せに活(い)ぎ活(い)ぎ生がす」
「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、
善悪の知識の木からは、
決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう」
翻訳:
「この庭のどの木の実でも採って食え。
んだどもな、
善(よ)し悪(あ)しィ見分げる木の実ばりァ、
絶対(なッたら)食うなや。
食えば必ず死んでしまうぞ」
「こころの貧しい人は、幸いである、
天の国はその人たちのものである」
翻訳:
「頼りなぐ、望みなぐ、心細(こゴろぼそ)い人ァ幸せだ。
神さまの懐(ふとゴろ)に抱(だ)ガさんのァ その人達(ひたぢ)だ」
というような、「んだ、んだ」といいたくなる、翻訳がいっぱいです。
では、また
独楽(こま)と少年
小さい頃の、
あの毎日が楽しく、忙しく、遊び疲れて寝てしまう生活は、
独楽が回っているのといっしょだ。
ぐるぐる回っているから倒れない。
自分がぐるぐる回っていることになんか絶対気がつかない。
年を取るというのは、
それまで自分が回っていることに気がつかなかった独楽が、
自分は回っていると気が付くことなのだろう。
回っている独楽が、自分が回っていると気付くとどうなる?
目が回るのかな?
そして軸がふらふらとしだすのだろう。
回転が止まれば倒れる。
今日、ふと子供というのは自分が回っていることに
気がつかない独楽のようだと思った。
年寄りは、自分が回っていることを知っている独楽だ。