昔、浜松町に勤務地があったとき、たまに自宅まで歩いた。浜松町からモノレールの走る下あたりを通っている「海岸通」を通って帰る。約一時間半から二時間ぐらいかかったから六キロから八キロの距離があったのだろうか。今、天王洲アイルと呼ばれているところを通った。
〔下の写真〕モノレールの下に運河がある。その運河に面して楽天のビルがある。私が浜松町から歩いて帰った時は、楽天という会社がない時代だ。楽天の社長は、元興銀という。興銀といえば、イコール日本とでもいえる銀行だったが、ある時、突然消えてなくなった。
モノレールの下の楽天ビルの出口では、いかにもITといった感じの男女が煙草を吸うためだろうか、冷たい風にあたるためだろうか、たむろしている。この周りには店とかないところだ。彼らしかいない。
この「タワー」いわれるマンション。一部屋、五千万円とか一億円するのだろう。今、田舎では過疎化、都市でさえ中心部以外は過疎化、空き家が増える。その一方、都心部ではタワーといわれる三十階もあるような高層マンションが作られる。
私は日本はヤマタノオロチのようなものと思う。八個の頭がそれぞれ別なことを考える。一つの頭は、地方に人をつなぎとめるため、地方に住む居心地を良くするため、地方に道路とか橋とか、「いこい」とか「ふれあい」とか「きずな」という名前のついた会合施設を作る。別の頭は、「中心部に三十階建てのマンションを作りたいのですが」という建築会社の申請に「どうぞ」と判を押す。かくして八つの頭がてんでんばらばらなことをするから税金と国債で入ってきた金は、たちまちのうちにあっちに払われたりこっちに払われたりし、なくなってしまう。八つの頭は切り落とされるまで別々のことを続けるのだろう。
「敬老公園」という名前の公園。私たちはこういう名前を付ける。「ふれあい」とか「きずな」とかいう名前だ。名前を付ける集まりの時、最大公約数的な、誰をも傷つけない、そして誰もが不快に感じない、そういう方向に行くのだろうな。日本人って、とても他人・となりの目を気にする。
「敬老」ってことばは、ごくごく自然な且つおのずと内部に芽生えてくる気持ちだ。個人の内の内にある血とか肉体のようなものだ。それを場所を示すものの名前にする・・・。場所には、その場所の名前。それでいいのでないの。駅やバス停や集会所が、「希望」とか「しあわせ」とか「さわやか」とか、そういう名前がつけられたらどうなってしまうのだろうか。たぶん「希望」も「しあわせ」も「さわやか」も、ほこりだらけの道路の上をコロコロと吹き飛ばされてゆく落ち葉みたいなものになってしまうのだろうな。
ここはモノレールの「天王洲アイル」の駅の近くだ。昔、ここには「JAL」の看板があったが、今、上に見えるのは「CANON」の看板だ。中には入れる。入り口には「野村不動産」の看板がある。JALが倒産したからこのビルを野村不動産に売ってしまったのか、それともビルが出来たときから野村不動産が持っていたものかは、わからない。
ビルから、リクルートスーツ(と思うのだが)を着た若い女性が駅の方に歩いてゆく。会社説明会でもあったのだろうか。
話は変わるが、今の若い人は大変だなあ、と考えるのは自分が年をとったからなのだろうか。それとも私たちの若い時と比べて本当に大変なのだろうか。人間は、同時に四十年前の若い時と今の若い時を過ごすことはできないから、自分で体験することは不可能だ。
私は、気分的に違うのは国の借金ではないかと思う。四十年前には国の借金という問題が無かった。働いてお金をためて家を買ってと、がんばればそれ相応のことは残るなと考えていた。今は違うような気がする。働いてお金をためて家を買ってまではいっしょなんだけれども、四十年前はなかった国の借金の問題がある。自分の問題でもないが自分の問題でもある。がんばってがんばってやろう。でも先はどうなるのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなるだけだ。これが四十年前と今の違いのような気がする。
若い人は言うだろう。こんなことをしたのは一世代前の人、二世代前の人が悪い、と。でも私はそうは思わない。今の人でも、一世代前の時代、二世代前の時代にいたら同じようなことをしたと思う。要するに日本人が行うとこうなるということだ。
ぐだぐだしてきたので、次の機会に話そう。
東品川海上公園というしゃれた公園ができていた。しゃれてはいるけど借金で作った、ということだ。この公園を歩くと木製プロムナードが現れる。この木製プロムナードは隣接マンションのプロムナードでもある。掲示によるとマンションがその敷地を提供しているのだそうだ。まあ、お金持ちの方とそうではない方とではやっぱり違うんだねと思います。どうしても話がぐだぐだしてきますね。
マンションの提供敷地
私がよく知っている東品川はおそらく二十年前のあたりだろう。その時はモノレールの駅もなくJALのビルもなかった。ここもにぎやかになりやがてさみしくなるのだろう。
以上 年寄りの思い出話でした。