ゆうとたいへ

六十を過ぎて始めた自転車旅行、山登りをつづります

2015年4月14日 東品川を歩く

2015-04-14 | 日記

 昔、浜松町に勤務地があったとき、たまに自宅まで歩いた。浜松町からモノレールの走る下あたりを通っている「海岸通」を通って帰る。約一時間半から二時間ぐらいかかったから六キロから八キロの距離があったのだろうか。今、天王洲アイルと呼ばれているところを通った。

 〔下の写真〕モノレールの下に運河がある。その運河に面して楽天のビルがある。私が浜松町から歩いて帰った時は、楽天という会社がない時代だ。楽天の社長は、元興銀という。興銀といえば、イコール日本とでもいえる銀行だったが、ある時、突然消えてなくなった。

 モノレールの下の楽天ビルの出口では、いかにもITといった感じの男女が煙草を吸うためだろうか、冷たい風にあたるためだろうか、たむろしている。この周りには店とかないところだ。彼らしかいない。

  この「タワー」いわれるマンション。一部屋、五千万円とか一億円するのだろう。今、田舎では過疎化、都市でさえ中心部以外は過疎化、空き家が増える。その一方、都心部ではタワーといわれる三十階もあるような高層マンションが作られる。

  私は日本はヤマタノオロチのようなものと思う。八個の頭がそれぞれ別なことを考える。一つの頭は、地方に人をつなぎとめるため、地方に住む居心地を良くするため、地方に道路とか橋とか、「いこい」とか「ふれあい」とか「きずな」という名前のついた会合施設を作る。別の頭は、「中心部に三十階建てのマンションを作りたいのですが」という建築会社の申請に「どうぞ」と判を押す。かくして八つの頭がてんでんばらばらなことをするから税金と国債で入ってきた金は、たちまちのうちにあっちに払われたりこっちに払われたりし、なくなってしまう。八つの頭は切り落とされるまで別々のことを続けるのだろう。

  「敬老公園」という名前の公園。私たちはこういう名前を付ける。「ふれあい」とか「きずな」とかいう名前だ。名前を付ける集まりの時、最大公約数的な、誰をも傷つけない、そして誰もが不快に感じない、そういう方向に行くのだろうな。日本人って、とても他人・となりの目を気にする。
 「敬老」ってことばは、ごくごく自然な且つおのずと内部に芽生えてくる気持ちだ。個人の内の内にある血とか肉体のようなものだ。それを場所を示すものの名前にする・・・。場所には、その場所の名前。それでいいのでないの。駅やバス停や集会所が、「希望」とか「しあわせ」とか「さわやか」とか、そういう名前がつけられたらどうなってしまうのだろうか。たぶん「希望」も「しあわせ」も「さわやか」も、ほこりだらけの道路の上をコロコロと吹き飛ばされてゆく落ち葉みたいなものになってしまうのだろうな。

 

 ここはモノレールの「天王洲アイル」の駅の近くだ。昔、ここには「JAL」の看板があったが、今、上に見えるのは「CANON」の看板だ。中には入れる。入り口には「野村不動産」の看板がある。JALが倒産したからこのビルを野村不動産に売ってしまったのか、それともビルが出来たときから野村不動産が持っていたものかは、わからない。

 

 ビルから、リクルートスーツ(と思うのだが)を着た若い女性が駅の方に歩いてゆく。会社説明会でもあったのだろうか。
 話は変わるが、今の若い人は大変だなあ、と考えるのは自分が年をとったからなのだろうか。それとも私たちの若い時と比べて本当に大変なのだろうか。人間は、同時に四十年前の若い時と今の若い時を過ごすことはできないから、自分で体験することは不可能だ。
 私は、気分的に違うのは国の借金ではないかと思う。四十年前には国の借金という問題が無かった。働いてお金をためて家を買ってと、がんばればそれ相応のことは残るなと考えていた。今は違うような気がする。働いてお金をためて家を買ってまではいっしょなんだけれども、四十年前はなかった国の借金の問題がある。自分の問題でもないが自分の問題でもある。がんばってがんばってやろう。でも先はどうなるのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなるだけだ。これが四十年前と今の違いのような気がする。
 若い人は言うだろう。こんなことをしたのは一世代前の人、二世代前の人が悪い、と。でも私はそうは思わない。今の人でも、一世代前の時代、二世代前の時代にいたら同じようなことをしたと思う。要するに日本人が行うとこうなるということだ。

 ぐだぐだしてきたので、次の機会に話そう。

 東品川海上公園というしゃれた公園ができていた。しゃれてはいるけど借金で作った、ということだ。この公園を歩くと木製プロムナードが現れる。この木製プロムナードは隣接マンションのプロムナードでもある。掲示によるとマンションがその敷地を提供しているのだそうだ。まあ、お金持ちの方とそうではない方とではやっぱり違うんだねと思います。どうしても話がぐだぐだしてきますね。

 マンションの提供敷地

 

 私がよく知っている東品川はおそらく二十年前のあたりだろう。その時はモノレールの駅もなくJALのビルもなかった。ここもにぎやかになりやがてさみしくなるのだろう。

以上 年寄りの思い出話でした。


2015年4月13日 田中森一の『遺言』

2015-04-13 | 日記

 田中森一の『遺言』を読む。副題は「闇社会の守護神と呼ばれた男、その懺悔と雪辱」。この方の前作『反転』は去年読んだ。

 この方の生き様。父親との葛藤。母親の愛情。兄弟との愛情。仕事の世界での上司との葛藤。仕事が順調に行くときの楽しい気分。断れない状況。などなど、多くの男が生まれ、社会に出て、晩年になるまで、その程度は大きいも小さいもあろうが、経験するようなことが、書いてある。

 この本に出てくる実名の登場人物は、1980年代から1990年代に登場した「バブル紳士」といわれる方たちだ。あの当時、現役としてそれほど遠くない世界で仕事をしていた私は、すでに忘れて久しかったこの方々たちを、もう多くの方は亡くなられたのだろうが、思い出した。

 あの当時、日本人の誰もがこんな「裏」があるのだとは知らなかっただろう。この著者の前作とこの本で分かった。

 著者が一番言い残したい部分は『遺言』の217ページ「石橋産業事件の幕開け」にある。石橋産業に200億円の手形を裏書させたのは、許永中とこの本の著者田中森一が石橋産業をだましたのか(詐欺)、それとも石橋産業は納得の上で(作者が言いう対価の見返りとして)振り出したのか、である。裁判所は、これは許永中と田中森一の詐欺である、とした。田中森一は石橋産業は事前に承諾していたと書いてる。

 「億」という呼称に何の違和感もなかった時代。今振り返ってみると、太平洋戦争とか戦後の貧しい時代とかは確かにあったよな、という記憶はある。でも、ちょっと会っただけの人からお礼に百万円が入った紙袋をもらったとか、新幹線の中に書類と一千万円の金が入ったカバンを忘れたとき、忘れ物の届け出書に書類だけを記載し、一千万円を届け出るのを忘れた、なんていう時代が四半世紀前に本当にあったなんて、とても信じられない。

 以上

 

 

 


2015年4月3日~5日 伊豆半島戸田峠~天城峠 

2015-04-12 | 日記

4月3日

 天候の悪い日が続くのはわかっていたが出発。

 朝、JR三島駅より修善寺駅の電車にのる。修善寺駅より戸田(へた)峠行きのバスに乗る。修善寺駅で小雨が降り始めた。

 今回の動機。2013年春ごろ東京から鳥羽まで自転車で行ったとき天城峠を通過した。天城峠で地図を見ると峠の西側に万三郎・万二郎という山があり縦走コースとなっている。その時は装備も持ち合わせておらず季節も寒い時期だったので行かなかったが、いずれ行ってみようと考えていた。

 伊豆半島の山岳地図を見ると伊豆半島の西北に戸田峠という場所があり、そこから天城峠・万三郎岳にかけて長い縦走路がある。ということで今回の縦走計画になった。

 戸田峠から万三郎岳までのコースタイムの累計は17時間である。三日で行けるかなと考えたが無理であった。三日目で天城峠にたどり着くのが精いっぱいで天城峠でバスに乗り下山した。

 9:44 戸田峠着 小雨

 10:22 小達磨山 その後、達磨山、古稀山、伽藍山と通過

 昼頃、強風となる。山道が伊豆スカイラインと合流する場所があるが風で吹き飛ばされそうになる。早めにテント適地を探す。

 14:48 船原峠まで0.1kmの地点に廃屋?のようなコンクリート製の休憩所がある。壁がないので風は吹きこむがここを今日のテント場とする。

  夜中まで風・雨が続きテントの中が浸水、シュラフの足元が濡れる。まだ午後3時頃であったがテントの中に退避、横になる。

4月4日 朝霧雨、午後より晴れる

 8:00 出発。天城峠まで24kmの標識有り。

 9:50 南無妙峠という場所あり。掲示によれば、昔、ここで乞食の夫婦が餓死をしたとのこと。土地の人がその夫婦を不憫に思い、その供養のためここの大きな石に「南無妙」と彫りこの夫婦を弔ったとのこと。この縦走路にはたくさんの峠がある。伊豆半島の東側と西側とこの山稜を越えて行き来してたのだろう。

 15:30 猫越池に着く。山の稜線の付近にあり、この時は日光が差し込んでいたのでとてもきれいな場所だ。ここを今日のキャンプ地とする。昨日濡れたものを出しロープを張り干す。夕方より曇ってき今にも雨が降り出しそうな天候となる。

4月5日 小雨

 7:00 出発 ここから天城峠の間、水が流れている沢が二ヶ所あり。

 12:47 天城峠に着く。ここよりバス停に向かって下る。

 天城峠から25分ほど下るとバス停がある。それに乗り河津駅に向かう。途中「踊り子温泉会館」という日帰り入浴があったのでそこに立ち寄る。

 反省

 戸田峠から万三郎岳への縦走は天候の良い日が続くとして三泊を見ておく必要があるのかも知れない。途中、食糧の補給場所はない。ただ天城峠から時間をかけ「道の駅」に往復する手段はある。水は補給できる場所として、猫越池(たまり水ゆえ要煮沸)、猫越池ー天城峠間に二ヶ所の沢水(但し当日は雨であったので、そのための流水かもしれない)あり。

以上 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


弟の思い出

2015-04-07 | 日記

私には弟がいた。名前をてつお、といった。


弟は一歳にならずに死んだ。私が二歳か三歳の時だ。


いなかに住んでいたこともあり、当時栄養状態も悪く、かぜとかの軽い病気でも死んでしまうのだろう。

(後で聞いた話では、腸チフスということであった)

私が小さかった頃の話として、母はよく思い出しては、私に言っていた。

<昔、住んでいた田舎の話>

幅、2メートル程度の車も通れないような細い道がある。
ある場所に、お墓に行く道の分岐点がある。
「そこにくるとおまえは背中で、てっちゃんのいるところに行こう」という。
私は、お墓に行くと、母から「てっちゃはここ(土の下)にいるのだ」と何度も聞かされていたから、ほんとにそこにいるものだと思い込んでいた、という。


私は、てっちゃんの記憶はないのだが、母の話を通じてなにかそんなことがあったような気がする。