201113_レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(1966年アメリカ映画)
中学生・高校生の頃(1960年代)は「SF小説」が好きだった。
私の住んでいた町は東北の太平洋岸の小さな町で、「図書館」というようなものはなかった。それに代わるものとして公民館というものがあり、公民館の中には本棚がある部屋があり本棚には本が並んでいた。
本棚には、(岩波文庫などはほとんどないのに)なぜか知らないが早川文庫のSFシリーズが、多分、全巻・50冊前後も並んでいた。
中学生だった私は、宇宙探検とかロボットとかタイムマシンとか、たちまちSFの世界に引きずり込まれた。
その時のSFの作家の内、今でも覚えている名前は「フレドリック・ブラウン」、「レイ・ブラッドベリ」だ。
レイ・ブラッドベリの『華氏451度』という本の名前もはっきり覚えている。
<華氏451度>という、意味不明だが何となく気になる名前が、覚えさせるのだ。
それから60年が過ぎた。
何かのきっかけで、再び『華氏451』という名前に出会った。
図書館に、DVDがあったので、本を読むのではなくDVDで見た。
<筋書>
ある未来の架空の世界、そこでは本を読むことは禁止されていた。
その世界での消防士の仕事は、「本」を見つけそれを焼却することであった。
「本」は危険な、人類に災禍をもたらす存在であった。
その世界の辺境の地には、本を丸ごと暗記しそれを口伝で伝える「語り部」のような人たちが住んでいた。
本を焼却することに良心の呵責を覚えた小説の主人公は、消防署を脱走し、辺境の「語り部」村に逃げた。
その村で、その村の長から命じられたことは、エドガー・アラン・ポーの『怪奇と幻想の物語』を全文暗記し、それを彼の後に来る者に口伝することであった。
この小説が書かれた1950年代は、(西側から見て)鉄のカーテンの向こう側では、スターリンがいうことを聞かない民衆を捕らえ、拷問を加えていると信じられていた時代であるから、このような小説が生まれるのも不思議ではない。
中学生・高校生の頃(1960年代)は「SF小説」が好きだった。
私の住んでいた町は東北の太平洋岸の小さな町で、「図書館」というようなものはなかった。それに代わるものとして公民館というものがあり、公民館の中には本棚がある部屋があり本棚には本が並んでいた。
本棚には、(岩波文庫などはほとんどないのに)なぜか知らないが早川文庫のSFシリーズが、多分、全巻・50冊前後も並んでいた。
中学生だった私は、宇宙探検とかロボットとかタイムマシンとか、たちまちSFの世界に引きずり込まれた。
その時のSFの作家の内、今でも覚えている名前は「フレドリック・ブラウン」、「レイ・ブラッドベリ」だ。
レイ・ブラッドベリの『華氏451度』という本の名前もはっきり覚えている。
<華氏451度>という、意味不明だが何となく気になる名前が、覚えさせるのだ。
それから60年が過ぎた。
何かのきっかけで、再び『華氏451』という名前に出会った。
図書館に、DVDがあったので、本を読むのではなくDVDで見た。
<筋書>
ある未来の架空の世界、そこでは本を読むことは禁止されていた。
その世界での消防士の仕事は、「本」を見つけそれを焼却することであった。
「本」は危険な、人類に災禍をもたらす存在であった。
その世界の辺境の地には、本を丸ごと暗記しそれを口伝で伝える「語り部」のような人たちが住んでいた。
本を焼却することに良心の呵責を覚えた小説の主人公は、消防署を脱走し、辺境の「語り部」村に逃げた。
その村で、その村の長から命じられたことは、エドガー・アラン・ポーの『怪奇と幻想の物語』を全文暗記し、それを彼の後に来る者に口伝することであった。
この小説が書かれた1950年代は、(西側から見て)鉄のカーテンの向こう側では、スターリンがいうことを聞かない民衆を捕らえ、拷問を加えていると信じられていた時代であるから、このような小説が生まれるのも不思議ではない。