電車の中の相変わらずの風景。
着席してみれば、隣の女の子、おもむろにお化粧の開始。
す~ぐ席を立ちました。彼女から離れること10m。不愉快!
下半身を見せられるようで、気色悪いこと甚だしいったらありゃあしない!
食事時、感謝の言葉をはかないで、いきなり食べ出す恥知らず。
外国旅行、と言っても観光旅行はしないから滞在型。
必ず「いただきます」の言葉をその地の人に教える、もちろん日本語で。
同席する人々によって対応が異なる人を決して尊敬しません。その不遜さに
辟易です。謙虚さが感じられないって、最近では不愉快の上に悲しさも加わります。
なんでこう、恥知らずなのかって。傲慢な心模様を見せ付けられる不快さ。
子ども達を育てる時、耳にタコができるほど、「おなたならどうする?」を
繰り返してきたものです。
「ママお水!」
「お水がどうしたの?」
「お水が欲しい!」
「なら、なんて言うの?」
「ママ、お水を頂戴」
・・・・手渡す時、すぐ与えません。
「なんて言うの?お水は一人で来たの?」
「ママ ありがとう」
そうして彼はお水の入ったコップを手にするのです。
それは、誰であっても同じです。
大人は言わなくていい?・・・とんでもありません!
生きると言う事は、「お陰」で生かされていることなのです。
「いただきます」は、作ってくれた人へ、目の前に並べてくれた人へ、
自分が生きるために他者の命を戴くことへ、普通に食べられる境遇へ感謝!
ですから当然「ご馳走様でした」も心から言えるのです。
ええ、もちろん一人で食事する時でも当然のことですよね。
「いただきます」「ご馳走様でした」
「ありがとう」も、自分の出来ないことを代行してくれた、あるいはプレゼ
ントの心、その気持ちの好意と行為に感謝です。
家族間で言えない人を軽蔑します。シッシッシッシ近寄らないで!
人以下なのですから、そんな生き物と付き合う暇はない!です。だって、不遜・
傲慢なのですよ。触発されない人との関りは無駄です。
いつもいつも他者を批判する人は、他者から批判されると勘ぐる狭量な性格
ですから、内弁慶です。内弁慶の人は家族を大事にしません。いつも自分の
感情が最優先です。
生きることが、家族のあり方がどのようなものか知っている人は、外部に対
して臆することはありません。自分を本当に大事と思える人は他者へも優し
い気持ちを持てます。時として、自分を打っちゃることが出来るのです。
損得は存在しません。
生きることは又、日々己の未熟さを思い知らされることでもあるのです。
後悔の気持ちに苛まれる時を持つことでもあると私は思います。
そこに、本当の成長があり、他者への優しさが初めて誕生する瞬間を持つこと
でもあると思います。
親は、な~んにも偉くなんてないのです。
子どもがいて初めて親なのです。子どものまっすぐな視線を浴びなくてはなら
ないのです。子どもがいるから親になれるのですから、親はいつも試されてい
ることを知らなくてはいけません。
人として、子どもに尊敬される存在にならなければ、子どもは悲しみます。
子どもは純粋です。その純粋さを親は往々にして汚します。
計算高い人間にしがちです。与えることより、受けることばかりを望む姿を
見せ付けてきます。教えられて、育てられてこなかった子どもは、親の二乗の
下らなさの中で人生を歩きます。社会、いわゆる家族間以外の人々の中で浮い
てしまう自分に出会っていきます。お行儀も言葉遣いもいい加減な親は、子どもの
人生の水先案内人にはなりきれず、苦しい航海を子どもに味わわせてしまいます。
人と比較する愚かさに早く気付かなくてはいけません。
全ての人は、全て個性的な存在で、他者と比較する必要なんて何もないのです。
「私は私以外の何者でもない」事にいち早く気付いた人が勝者です。比較する
という愚行を犯さずにすみますし、自分をいとおしむ事を知ります。
そして、言葉の持つ力を知ります。
「ありがとう!」「いいえ、どういたしまして」
「大丈夫?」「お陰さまで」そして心から「ごめんなさい」
これらの言葉をスムーズに言える人は、何かの能力を持っている?肩書き?
社会的地位?そんなものを持つけれど不遜な人、をはるかに凌駕します。
肩書きも地位もなくなるけれど、失うものを持たない人は死ぬまでその宝を
持ち続けられるのですから。
ここで、もっとそれらと同じように、否それ以上に大切なことは
「いりません!」
捨てる勇気を持つことです。心の中にいつもビクビク人の顔色を見ているい
やらしい根性をポイッて捨てられる人は強いのです。
他者が自分にとって、恐るるに足りない存在ということを知ることは力にな
ります。幻影におののいている自分に気付くべきでしょう。するとアホらしく
て、その時間と感覚を自分に向けられるようになります。
私は欲しいものなんてない!ハッキリと
「ありがとう、でも要りません!」
嫌われてもいいじゃありませんか?その前にこちらから願い下げなのですから。
本当に必要なものは、決して形をなしてないものかもしれないことを知るべき
なのです。
そして、この悠久な人間の歴史に、先人達が残してくれた普遍的なことを取り
入れることに時間を割くべきでしょう。どうやって?
死ぬほど本を読みなさい!です。偏らないで、出来るだけ多くのジャンルを!
そうすると、見えなかった一条の光がまっすぐに射しているのをある時感じる
自分に出会うと思います。
私は母に育てられました。そう、養われたと同時に育てられました。どれほどの
薫陶を受けてきたことでしょう。感謝!母の娘であったことをどれほど誇りと
してきたか、ありがとうお母さん!です。そして、折節に出会った人生の指導者。
そして、そして、多くの本が私を育ててくれました。断言できます。
ですから、私は3人の息子達に「死ぬほど本を読みなさい!」と言い続けました。
きっと、彼らは作者に、登場人物に案内されるでしょうから。
本は優秀な水先案内人です。
着席してみれば、隣の女の子、おもむろにお化粧の開始。
す~ぐ席を立ちました。彼女から離れること10m。不愉快!
下半身を見せられるようで、気色悪いこと甚だしいったらありゃあしない!
食事時、感謝の言葉をはかないで、いきなり食べ出す恥知らず。
外国旅行、と言っても観光旅行はしないから滞在型。
必ず「いただきます」の言葉をその地の人に教える、もちろん日本語で。
同席する人々によって対応が異なる人を決して尊敬しません。その不遜さに
辟易です。謙虚さが感じられないって、最近では不愉快の上に悲しさも加わります。
なんでこう、恥知らずなのかって。傲慢な心模様を見せ付けられる不快さ。
子ども達を育てる時、耳にタコができるほど、「おなたならどうする?」を
繰り返してきたものです。
「ママお水!」
「お水がどうしたの?」
「お水が欲しい!」
「なら、なんて言うの?」
「ママ、お水を頂戴」
・・・・手渡す時、すぐ与えません。
「なんて言うの?お水は一人で来たの?」
「ママ ありがとう」
そうして彼はお水の入ったコップを手にするのです。
それは、誰であっても同じです。
大人は言わなくていい?・・・とんでもありません!
生きると言う事は、「お陰」で生かされていることなのです。
「いただきます」は、作ってくれた人へ、目の前に並べてくれた人へ、
自分が生きるために他者の命を戴くことへ、普通に食べられる境遇へ感謝!
ですから当然「ご馳走様でした」も心から言えるのです。
ええ、もちろん一人で食事する時でも当然のことですよね。
「いただきます」「ご馳走様でした」
「ありがとう」も、自分の出来ないことを代行してくれた、あるいはプレゼ
ントの心、その気持ちの好意と行為に感謝です。
家族間で言えない人を軽蔑します。シッシッシッシ近寄らないで!
人以下なのですから、そんな生き物と付き合う暇はない!です。だって、不遜・
傲慢なのですよ。触発されない人との関りは無駄です。
いつもいつも他者を批判する人は、他者から批判されると勘ぐる狭量な性格
ですから、内弁慶です。内弁慶の人は家族を大事にしません。いつも自分の
感情が最優先です。
生きることが、家族のあり方がどのようなものか知っている人は、外部に対
して臆することはありません。自分を本当に大事と思える人は他者へも優し
い気持ちを持てます。時として、自分を打っちゃることが出来るのです。
損得は存在しません。
生きることは又、日々己の未熟さを思い知らされることでもあるのです。
後悔の気持ちに苛まれる時を持つことでもあると私は思います。
そこに、本当の成長があり、他者への優しさが初めて誕生する瞬間を持つこと
でもあると思います。
親は、な~んにも偉くなんてないのです。
子どもがいて初めて親なのです。子どものまっすぐな視線を浴びなくてはなら
ないのです。子どもがいるから親になれるのですから、親はいつも試されてい
ることを知らなくてはいけません。
人として、子どもに尊敬される存在にならなければ、子どもは悲しみます。
子どもは純粋です。その純粋さを親は往々にして汚します。
計算高い人間にしがちです。与えることより、受けることばかりを望む姿を
見せ付けてきます。教えられて、育てられてこなかった子どもは、親の二乗の
下らなさの中で人生を歩きます。社会、いわゆる家族間以外の人々の中で浮い
てしまう自分に出会っていきます。お行儀も言葉遣いもいい加減な親は、子どもの
人生の水先案内人にはなりきれず、苦しい航海を子どもに味わわせてしまいます。
人と比較する愚かさに早く気付かなくてはいけません。
全ての人は、全て個性的な存在で、他者と比較する必要なんて何もないのです。
「私は私以外の何者でもない」事にいち早く気付いた人が勝者です。比較する
という愚行を犯さずにすみますし、自分をいとおしむ事を知ります。
そして、言葉の持つ力を知ります。
「ありがとう!」「いいえ、どういたしまして」
「大丈夫?」「お陰さまで」そして心から「ごめんなさい」
これらの言葉をスムーズに言える人は、何かの能力を持っている?肩書き?
社会的地位?そんなものを持つけれど不遜な人、をはるかに凌駕します。
肩書きも地位もなくなるけれど、失うものを持たない人は死ぬまでその宝を
持ち続けられるのですから。
ここで、もっとそれらと同じように、否それ以上に大切なことは
「いりません!」
捨てる勇気を持つことです。心の中にいつもビクビク人の顔色を見ているい
やらしい根性をポイッて捨てられる人は強いのです。
他者が自分にとって、恐るるに足りない存在ということを知ることは力にな
ります。幻影におののいている自分に気付くべきでしょう。するとアホらしく
て、その時間と感覚を自分に向けられるようになります。
私は欲しいものなんてない!ハッキリと
「ありがとう、でも要りません!」
嫌われてもいいじゃありませんか?その前にこちらから願い下げなのですから。
本当に必要なものは、決して形をなしてないものかもしれないことを知るべき
なのです。
そして、この悠久な人間の歴史に、先人達が残してくれた普遍的なことを取り
入れることに時間を割くべきでしょう。どうやって?
死ぬほど本を読みなさい!です。偏らないで、出来るだけ多くのジャンルを!
そうすると、見えなかった一条の光がまっすぐに射しているのをある時感じる
自分に出会うと思います。
私は母に育てられました。そう、養われたと同時に育てられました。どれほどの
薫陶を受けてきたことでしょう。感謝!母の娘であったことをどれほど誇りと
してきたか、ありがとうお母さん!です。そして、折節に出会った人生の指導者。
そして、そして、多くの本が私を育ててくれました。断言できます。
ですから、私は3人の息子達に「死ぬほど本を読みなさい!」と言い続けました。
きっと、彼らは作者に、登場人物に案内されるでしょうから。
本は優秀な水先案内人です。