時々思うのです。
今回の、日本の反対側からやってきた私たちと同じモンゴロイドの血を引くミゲル
君の苦しみを思う時、どうやって人は孤独と無縁で暮らせるのか?って。
もちろん、私のように、一人の時間を自ら求める、騒がしい、不特定多数の人達が
いる所が苦手で、出歩かない人間の行動は、孤独からはなたれるものではありません。
やりきれない寂寥、自分を直視できない弱い(と思いたい)自分からの回避、この
不幸は自分が招いたものではないのに、この不条理は、自分以外の全てのせい!
こうして、自らを納得させる(そう思いたい)と同時にニヒルな薄笑いを浮かべて。
ヒシヒシと忍び寄る孤独感に背筋を凍りつかせ、堂々巡りの迷路の住人になるのです。
そんな彼らの主食は「人の不幸」。
ありとあらゆる不幸の種を嗅ぎまくって、捜して、ほじくって、
ちょっと高い教育を受けた者は、いっぱしの評論家に。いつもいつも他者のあら探し。
そうでない人々は、他者の仕掛けに乗って(自覚はない)、メディアに踊らされ、
同じ不幸の境遇にいる人々を蔑(さげす)み、
「ああ、良かった、幸せじゃない人がこんなにもいる」
と、邪悪な心でほくそえむ。
ゲヒャヒャヒャヒャ・・・下品を求め(無意識に)、品格とは億光年も離れた所へ
住みたがる。やりきれない孤独感を道連れにして。
ーーー嗚呼ーーーー
「何やってるのよ!」
「あれを・これを やっちゃダメ!」
「もう、どうしてそんなに困らせるのよ!」
「私(俺)の言う事を聞いてりゃいい!」
「誰それさんを見なさい!」
「どうして!わからないの!?」
最も身近な人から罵詈雑言を浴びせられて、いっつも懐疑の目で見られ、
出来そこないのように見下げられ、俎上に置かれて他者との比較という包丁で
切り刻まれる。そこら中から流れている膨大な血。けれどもそれは見ることが
出来ない血なのです。これが、あの血肉を分けた親?
知らないよ、どんなに私(俺)が生まれた時にあんた達が大喜びしたか、なんて。
それは信じられないね。喜んだ?そりゃあ良かったね。でも、残念ながら、こち
とらの記憶はないよ。
知ってるのは、鬼のような形相で怒りまくってた、そう、今でも。従えようとする
あんた達の事。
私(俺)のこと、どれだけ知ってる?
人と比較しない、私(俺)の存在って何?
いっつも損得の話。
自分以外の人間をこき下ろすあんた達って、そんなに偉いのかよ。
行儀作法を教えてくれたっけ?
茶碗の持ち方、箸の使い方、私(俺)が外で恥じをかかないように、社会のルールを
教えてくれたっけ?・・・教えられる訳ないか?あんた達がそんなもの知らないって、
とうの昔に捨てちゃったんだから。
-----嗚呼ーーーーー
出血多量で、輸血を求めているのに、死にそうなのよ、助けて~~!
見えない血の流れに、周りの人間は誰一人気付かない。
ーーーーー嗚呼ーーー
言い訳は要らないのです。言ってはいけないのです。それは卑怯なのです。
私が息子達に言ってきたことは、
「卑怯者になるな!」・・・言い訳をしない!
でした。言い分は誰にでもいつでもあるのです。それは自明の理なのです。
でも、だから、それをしてはいけないのです。
「ン」なんて思うことはいっぱいありました、あります。自分の家族の言動に。
さあ、ここで、試されるのです。誰から?誰に?・・・自分自身!
山坂峠、深い谷底、険しい登坂、落石、地すべり、雪崩、濃霧、豪雨、落雷
など等。思いもしない、予期せぬ出来事は大小さまざま。
「エッ?」「ウソ!」「なんで?」「信じられない!」これが結婚生活の実態。
当たり前です、言ってみれば、異民族・異文化の結合なのですから、自然と出
てくる馴染んだ思考・生活様式。それがどれほど相手を驚かせ、不快にさせるか、
結婚前には思いも寄らなかったことです。それの連続。そこから新しい文化を
誕生させるのですから、それ相当の軋轢、行き違いが生まれても仕方がない事
なのです。恥ずかしげもなく「×いち」なんて離婚を平気で言う人々は、その
文化作成を放り投げた人達にほかなりません。
そこに、大きな問題があることに気付いていません。
そこに、自分自身を放り投げたことに。こんな悲しいことはないのです。
「あの人が!」「あいつが!」
って、相手のせいにします。
ま、私(俺)も悪かった、チラッと思ったとしても。運が悪かった。
最大、最重要因に気付いてないのです。
自分を捨ててしまった事に。
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」
という言葉があります。やってみなきゃわからない。体験しなさい、理屈
じゃあないってことです。
ええ、そうです。そこで、「こんな筈じゃなかった」に短絡的に走る。
そこに、自分を見限った姿があることに気付いてないのです。
数年前の手術、後遺症、先月2度も私を襲った心筋梗塞発作。
私は自分に出会い、誰よりもいとしい大切な自分を抱きしめたのです。
ですから、もう自分を裏切らない事に決めたのです。
子どもは、自分の血肉を分けた分身です。
ええ、その「ン?」と思う場面に何回も遭遇してきて、どうしたって?
信じ切ったのです、本当に。口には出しません。期限は?死ぬまで。
世界で一番大切な私の大切な子ども達なのですから、何があっても、
「こんなことくらいで、彼(等)を疑う?私がうろたえる?バカ言いなさい。
何があっても、どんなことがあっても、私の子ども(達)は、絶対に負けない!
彼等の人生の終わりに、納得して息を引き取るのよ。ええ、絶対にね!」
一喜一憂なんて、そう、一喜一喜はします。良かった良かったって。でも、
嘆きません、疑いません。そんな自分と彼等を侮辱するようなことはしません。
夫?
私が人生の伴侶と決めたのです。ええ、決めたのです。いとしい自分が決めた
のです、選んだのです。
そこには私自身を愛することが何にもまして存在しなければ成し遂げられない
続けられない結婚生活。これも死が2人を分かつまで。
これが、「信じる」ということです。他者を?その前に自分を!
信じる事に期限などがあってはいけないのです。
他者を責める、ええ、私もその過ちは幾度となく犯してきました。苦しんだのは
相手?ええ、それもあるでしょう。けれども、そこから何も解決の糸口が見いだ
せなくて苦しんできたのも事実です。
何もかも、人のためなんかじゃないのです。全て、自分のためでした。机上の
空論なんかじゃなく、事実として。
「ごめんなさい」は、無意識に、確信犯は論外として、人を傷つけた行為や言葉、
そんなことをしてしまった自分に言うのです。自分自身を汚した事を詫びるのです。
続く・・・
今回の、日本の反対側からやってきた私たちと同じモンゴロイドの血を引くミゲル
君の苦しみを思う時、どうやって人は孤独と無縁で暮らせるのか?って。
もちろん、私のように、一人の時間を自ら求める、騒がしい、不特定多数の人達が
いる所が苦手で、出歩かない人間の行動は、孤独からはなたれるものではありません。
やりきれない寂寥、自分を直視できない弱い(と思いたい)自分からの回避、この
不幸は自分が招いたものではないのに、この不条理は、自分以外の全てのせい!
こうして、自らを納得させる(そう思いたい)と同時にニヒルな薄笑いを浮かべて。
ヒシヒシと忍び寄る孤独感に背筋を凍りつかせ、堂々巡りの迷路の住人になるのです。
そんな彼らの主食は「人の不幸」。
ありとあらゆる不幸の種を嗅ぎまくって、捜して、ほじくって、
ちょっと高い教育を受けた者は、いっぱしの評論家に。いつもいつも他者のあら探し。
そうでない人々は、他者の仕掛けに乗って(自覚はない)、メディアに踊らされ、
同じ不幸の境遇にいる人々を蔑(さげす)み、
「ああ、良かった、幸せじゃない人がこんなにもいる」
と、邪悪な心でほくそえむ。
ゲヒャヒャヒャヒャ・・・下品を求め(無意識に)、品格とは億光年も離れた所へ
住みたがる。やりきれない孤独感を道連れにして。
ーーー嗚呼ーーーー
「何やってるのよ!」
「あれを・これを やっちゃダメ!」
「もう、どうしてそんなに困らせるのよ!」
「私(俺)の言う事を聞いてりゃいい!」
「誰それさんを見なさい!」
「どうして!わからないの!?」
最も身近な人から罵詈雑言を浴びせられて、いっつも懐疑の目で見られ、
出来そこないのように見下げられ、俎上に置かれて他者との比較という包丁で
切り刻まれる。そこら中から流れている膨大な血。けれどもそれは見ることが
出来ない血なのです。これが、あの血肉を分けた親?
知らないよ、どんなに私(俺)が生まれた時にあんた達が大喜びしたか、なんて。
それは信じられないね。喜んだ?そりゃあ良かったね。でも、残念ながら、こち
とらの記憶はないよ。
知ってるのは、鬼のような形相で怒りまくってた、そう、今でも。従えようとする
あんた達の事。
私(俺)のこと、どれだけ知ってる?
人と比較しない、私(俺)の存在って何?
いっつも損得の話。
自分以外の人間をこき下ろすあんた達って、そんなに偉いのかよ。
行儀作法を教えてくれたっけ?
茶碗の持ち方、箸の使い方、私(俺)が外で恥じをかかないように、社会のルールを
教えてくれたっけ?・・・教えられる訳ないか?あんた達がそんなもの知らないって、
とうの昔に捨てちゃったんだから。
-----嗚呼ーーーーー
出血多量で、輸血を求めているのに、死にそうなのよ、助けて~~!
見えない血の流れに、周りの人間は誰一人気付かない。
ーーーーー嗚呼ーーー
言い訳は要らないのです。言ってはいけないのです。それは卑怯なのです。
私が息子達に言ってきたことは、
「卑怯者になるな!」・・・言い訳をしない!
でした。言い分は誰にでもいつでもあるのです。それは自明の理なのです。
でも、だから、それをしてはいけないのです。
「ン」なんて思うことはいっぱいありました、あります。自分の家族の言動に。
さあ、ここで、試されるのです。誰から?誰に?・・・自分自身!
山坂峠、深い谷底、険しい登坂、落石、地すべり、雪崩、濃霧、豪雨、落雷
など等。思いもしない、予期せぬ出来事は大小さまざま。
「エッ?」「ウソ!」「なんで?」「信じられない!」これが結婚生活の実態。
当たり前です、言ってみれば、異民族・異文化の結合なのですから、自然と出
てくる馴染んだ思考・生活様式。それがどれほど相手を驚かせ、不快にさせるか、
結婚前には思いも寄らなかったことです。それの連続。そこから新しい文化を
誕生させるのですから、それ相当の軋轢、行き違いが生まれても仕方がない事
なのです。恥ずかしげもなく「×いち」なんて離婚を平気で言う人々は、その
文化作成を放り投げた人達にほかなりません。
そこに、大きな問題があることに気付いていません。
そこに、自分自身を放り投げたことに。こんな悲しいことはないのです。
「あの人が!」「あいつが!」
って、相手のせいにします。
ま、私(俺)も悪かった、チラッと思ったとしても。運が悪かった。
最大、最重要因に気付いてないのです。
自分を捨ててしまった事に。
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」
という言葉があります。やってみなきゃわからない。体験しなさい、理屈
じゃあないってことです。
ええ、そうです。そこで、「こんな筈じゃなかった」に短絡的に走る。
そこに、自分を見限った姿があることに気付いてないのです。
数年前の手術、後遺症、先月2度も私を襲った心筋梗塞発作。
私は自分に出会い、誰よりもいとしい大切な自分を抱きしめたのです。
ですから、もう自分を裏切らない事に決めたのです。
子どもは、自分の血肉を分けた分身です。
ええ、その「ン?」と思う場面に何回も遭遇してきて、どうしたって?
信じ切ったのです、本当に。口には出しません。期限は?死ぬまで。
世界で一番大切な私の大切な子ども達なのですから、何があっても、
「こんなことくらいで、彼(等)を疑う?私がうろたえる?バカ言いなさい。
何があっても、どんなことがあっても、私の子ども(達)は、絶対に負けない!
彼等の人生の終わりに、納得して息を引き取るのよ。ええ、絶対にね!」
一喜一憂なんて、そう、一喜一喜はします。良かった良かったって。でも、
嘆きません、疑いません。そんな自分と彼等を侮辱するようなことはしません。
夫?
私が人生の伴侶と決めたのです。ええ、決めたのです。いとしい自分が決めた
のです、選んだのです。
そこには私自身を愛することが何にもまして存在しなければ成し遂げられない
続けられない結婚生活。これも死が2人を分かつまで。
これが、「信じる」ということです。他者を?その前に自分を!
信じる事に期限などがあってはいけないのです。
他者を責める、ええ、私もその過ちは幾度となく犯してきました。苦しんだのは
相手?ええ、それもあるでしょう。けれども、そこから何も解決の糸口が見いだ
せなくて苦しんできたのも事実です。
何もかも、人のためなんかじゃないのです。全て、自分のためでした。机上の
空論なんかじゃなく、事実として。
「ごめんなさい」は、無意識に、確信犯は論外として、人を傷つけた行為や言葉、
そんなことをしてしまった自分に言うのです。自分自身を汚した事を詫びるのです。
続く・・・