毎週通う心理学講座は、かなり厳しい内容です。去年の勉強は助走って感じの、濃いそれ。
強い決意がなければ、自分が受けた痛みを子どもに与えます、無意識に!
人の心のありようが、--ウッソ-、勘弁してよーーって、いやらしいことこの上ないのです
ええ、もちろん自分だって例外ではないのです。
その人が必ずとるパターン化した言動。
保身のために、とっさに取る防衛手段。
ほとんど、無意識に行う言動ですから、自他共に傷つけていることに気付きません。
フロイトは言いました。
「無意識のそこにあるのはゴミ」って。でもほとんどの人はゴミの捨て方を知りません。
他者から受けた傷。防衛手段に使われる自身の、捨てきれない使い古された言動の数々。しまいこんでいる、けれど使用頻度の高い他者を傷つける言葉の数々。返す刀で自分も傷つけて。
先人は言いました。
「人生ってそんなものさ」「禍福はあざなえる縄の如し」
そして、苦しい辛い人生の避難所が占い、宗教、あるいは金へと。
子ども達へ、
「いい子にするのよ」
そのために、ああしなさい!こうしなさい!あれはダメ!これはダメ!
けれども、子ども達は周りの大人の矛盾を見て、知っていくのです、尊敬できないと。
無意識は、氷山に例えられます。意識は数%、残りが無意識。ほとんど人は無意識で動いているのですから厄介なのです。無意識は感知しない、できないものなのですから。
育児放棄、あるいは過干渉。叱るけれど褒めない。人格形成時期に、その子の一生が決定されるって、みんな知らないのです。足りない部分を執拗に求める。完璧なんてないのに。
支配しようとするのです。
無意識を意識に上らせなければ解決の糸口は見つからないのです。
そこにあるのがカウンセリングです。
あたくしも、自分をカウンセリングしてみて、辛い場面もありましたが、蓋をして来たそれを出して見ました。しなければならない事だったのです。白日の下へ晒すのです。何が出てこようとも。それが、本当の自分に出会うために必要なのですから。
99才の母親が身罷った時、後を追うようにして亡くなった70才代の息子。ノンフィクション。愛して欲しかったのです。人は、年令に関係なく愛が必要なのです。
よく、親たちは、愛したって言います。平等に愛したって。ウソじゃない?それって。瞬時として同じ時間はないし、環境も変わっていきます、それでも愛したって言っても、受け手が感じられなければ、それはなかった事だってあたくしは思います。
愛も言葉も、受け手が発信者の思いを受け取られなければ、それは発信者の自慰行為って、
あたくしは断言します。虚しい言い訳。親は、自分を愛さなければ子どもを愛せません。
辛かった、悲しかった、苦しかった、そんな経験を乗り越えて生きている、今いる自分を目一杯抱きしめる事よ。自分を認め、誉める事じゃないかとあたくしは思います。素直に、あるがままの自分を愛して、初めて他者を愛せると思うの。ええ、よく生きてきたわ。本当に!って。