それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

自己PR(自慢)

2019-04-08 13:49:40 | 教育

 統一地方選挙の最中、自分についての自慢を書き連ねた文書や声高なアナウンスに辟易した。

 近年(といっても随分前から)、大学生の就職活動に際して、希望先に、「自己PR文(自己推薦文)」を提出するという慣行があり、学生の手になる作文の添削をたびたびしてきた。そして、日本人は、ここまで、平然と自分のことを売り込むという文化を身につけるようになったのかと驚かされる。しかも、その自己推薦という行為の後押しをしている自分にうんざりもする。時に、自分の長所を見い出せない、至極まともな学生もいる。「特に自慢できるようなことはありません。」という学生には、「控えめで、協調性がある」などと書かせて、こんな文書を採用担当者は、信用しているのだろうかと疑問に思う。

 かつては、教員採用試験に際して,大学の指導教員による「人物調書」が必要で、私たちは、理想的な人物像を捏造して、精一杯善意の文書を作成したものであったが、そのうちに、教育委員会が、それらの文書の内容に信頼性がないと気づいて、提出を義務づけなくなった。「仲人口」と同じで、よほどのことがない限り、学生の長・短所をありのままに書く教員などいはしないだろう。

 ある時期から、教師が学生・生徒に対して、「私は、浅学非才で……」などと卑下した発言をすると、正直に、「あの先生は勉強ができないのだ。」と言葉通りに受け取るらしいと言われるようになっているということを耳にし、体験もしたことがある。逆に、「私は、こんなに優れているという発言も、そのまま受け取られるようになったのであろうか。

 最近、好んで読んでいる作家、吉村昭は、随想の中で、名刺に肩書きを書かないと言っている。「作家」と書くのが面映ゆいのだそうである。古き良き時代の教養人のたしなみだとして、一層信頼できる存在になった。もっとも、顔つき、風体から、「物書き」と思われることは、ほとんどなく、警察関係者か工務店、水道屋の親父さん、時に「その筋」の人と信じ込まれているというから、氏の真実の思いは、私にはうかがい知ることはできないが……。