文科大臣は、このほど中央教育審議会に対して、小学校から高等学校までの指導体制の改革について検討するように諮問したが、その中に、小学校教員の教科担任制の導入の可否が含まれている。
私は、かねてより、小学校教員が、すべての教科を指導することに関して疑問を持っている。学級担任制には、いろいろ理由もあろうが、全教科を担当して、一定レベル以上の質を保証することは、ほぼ不可能である。いわば、「こころ優しいスーパーマン(スーパー・ウーマン)」でなくてはできない無理なことを、すべての教員に求めているのであり、この困難を克服し、世界に誇れる初等教育の質を維持しているのは、ひとえに日本の小学校教員の涙ぐましい努力のたまものである。
小学校では、中・高校のように教科ごとに教員が替わるのでなく、一人の教員が同じ児童を見守るために学級担任制をとっているのであろうが、一つには、人間の能力の点で、オールマイティの人間を期待するこの制度は破綻するであろうし、一人の教員に固定することは単純な性善説を前提にするものであり、すべての児童にとって、すべての教員が理想的な存在あるとは言えないのは、当然のことである。昨今のいじめ問題、児童の自殺や虐待などは、多くの教員の目が、一人の児童に向けられることで回避できたかもしれないし、相性の悪い教員と児童の関係も回避ないしは改善できるかもしれない。
ついでに、小学校では、低学年、中学年、高学年の担当教員を置くべきである。小学校は、6カ年という中、高の二倍の教育期間である上に、成長の度合いが早く、それぞれの発達段階の特性も際立っている。高学年から低学年へと担当替えになった有能なベテラン教員が困惑、挫折した事例を、少なからず知っている。それぞれの発達段階に特化した教員を配置するのがよい。
これらの改革、改善案が、教員の労働条件の改善とセットになっていると考えるむきもあるようだが、それは全く別問題である。下手をすると、一層過酷になる可能性もある。教員養成大学・学部の入学試験受験者が激減する現象は、将来の教員の資質の低下を意味している。過大な任務と期待を寄せられては困惑するばかりの現場になりかねない。過労死を招きかねないブラックな労働環境は、教員にも児童にも弊害をもたらす。これからの教育はアクティブ・ラーニングであるという。日本語で表現できないような教育の実現は、また、教員に過大な任務を強いるはずである。児童、生徒の主体性を重視する時には、必ず基礎・基本の欠落という現象を伴う。いずれ、疲れ果てた教員が、この問題の解決を迫られることになる。教員なんてやってられないということにならねばよいがと願うばかりである。