異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

河野外相なぜ認めた 森友疑惑キーパーソンが海外“高飛び” 〔日刊ゲンダイ 2017.8.15〕

2017-08-15 19:01:08 | 森友学園疑惑

 画像に含まれている可能性があるもの:2人、、スマイル、テキスト

 画像に含まれている可能性があるもの:2人、テキスト

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/211485より転載

河野外相なぜ認めた 森友疑惑キーパーソンが海外“高飛び”

2017年8月15日

 河野外相(左)と谷査恵子氏(右)(C)横田一 河野外相(左)と谷査恵子氏(右)(C)横田ー

 

 “忖度しない男”も牙を抜かれてしまったのか――。

 今月3日に行われた内閣改造で外務大臣に任命された河野太郎氏。自民党の原発推進政策に公然と異を唱え、南スーダンPKOの日報隠蔽問題も追及してきた。ところが、外相という「アメ」を与えられた途端、鳴りを潜めてしまったようだ。

 森友疑惑で“渦中の人”となった総理夫人付秘書官・谷査恵子氏の在イタリア日本大使館勤務という“栄転”を認めてしまった。谷氏は、経産省のノンキャリア官僚ながら安倍首相の妻・昭恵氏を秘書としてサポート。何より、大阪地検特捜部に詐欺容疑で逮捕された籠池泰典前理事長と財務省をつないだ「口利き役」という、疑惑のキーパーソンだ。

 外務省はそんな重要人物を出向先として迎え入れ、谷氏は晴れて6日付で1等書記官に着任した。これ以上、野党とマスコミが追及できないように、事実上、海外に逃がした形だ。なぜこんな人事がまかり通るのか。政治評論家の山口朝雄氏がこう言う。

「常識的に考えれば、ノンキャリの官僚が在イタリア大使館へ栄転する人事はあり得ない。特別な人事を行うことで、政権に協力すれば褒美として出世させると官僚に見せつけたのも同然です。河野太郎氏も、外務大臣に“大栄転”したことで、官邸に歯向かえなくなっているのではないか。もともと、安倍首相が河野氏と野田聖子氏を入閣させたのは、自分と考え方の違う人間を閣内に入れることで、国民に対して謙虚な姿をアピールするためです。河野氏は、まんまと安倍首相の演出に一役買ってしまった。谷さんの人事をストップさせていれば、国民の河野外相に対する評価は跳ね上がったはずです」

 谷氏以外に、海外に出向したキーパーソンとして挙げられるのが、防衛省の前統合幕僚監部参事官付国外運用班長の小川修子氏だ。小川氏は、南スーダンPKOの日報隠蔽問題で実務レベルの責任者だったが、現在、在中国大使館の1等書記官を務めている。

 谷氏の“高飛び”をストップしなかった河野外相の責任は重い。

 

 

 

 


「過去を忘れるのが早すぎないでしょうか」 なかにし礼さんインタビュー〔東京新聞 2017.8.15〕

2017-08-15 19:00:04 | 平和 戦争 自衛隊

なかにし礼 終戦記念日インタビュー 国に棄てられて 

 

東京新聞 TOKYO Webhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017081502000115.html

「過去を忘れるのが早すぎないでしょうか」 なかにし礼さんインタビュー

写真

 戦後72年の終戦記念日の特集は、作家で作詩家のなかにし礼さん(78)のインタビューです。創作の原点であり、生と死そして国家と個人を考える端緒となった戦争の闇を語り、その闇の深さから生まれた憲法を「最高の芸術作品」と呼びました。 (聞き手=編集局次長・瀬口晴義)

◆幼少期に引き揚げ

 -せい絶な引き揚げ体験がおありですね。

 僕の人生の幕開けは爆弾の音でした。昭和二十年八月で、当時は六歳。交響曲「運命」の第一楽章のようにジャジャジャジャーン!と目が覚めました。

 満州へ両親が北海道の小樽から渡ったのは昭和八年です。酒造りで成功し、私は十三年に生まれました。揺籃(ようらん)の穏やかな時が流れていたのに、にわかにソ連軍が侵攻してきました。

 八月十一日の午前十時ごろです。わが家の庭にいると、ソ連軍の爆撃機がものすごいごう音で飛んできました。目の前で、腹がぱかっと開いて爆弾がぽろりぽろりと落ち始めて。道一本隔てた陸軍の兵器庫を大爆撃したわけです。僕は吹き飛ばされ、家は爆風でガタガタになりました。

 父は長春に出張中で留守でした。母は「一日も早く逃げるべきだ」と即断します。関東軍に掛け合い、軍人とその家族を避難させる列車に自身と私、七歳上の姉を潜り込ませました。

 夜陰に紛れて牡丹江駅を出発した列車には千何百人も乗っていました。国を守るべき軍人がいち早く国民を捨てて逃げるのです。翌朝、列車が横道河子(おうどうかし)駅の辺りで機銃掃射を受けます。僕たち家族も一般居留民を出し抜いて軍用列車に乗った後ろめたさは感じていましたが、われ先に逃げたのはふんぞり返っていた少佐らしき軍人でした。

 機銃掃射の時、母は「おまえは小さいんだから座席の下に隠れなさい」と僕を座席の下に押し込み、外へ飛び降りて逃げた。僕は、親から見捨てられた気分になりました。生まれて初めての残酷な体験です。列車に戻ってきた母は「これからは自分の意思で逃げて、自分の意思で生きなさい」と。母の名言で、僕ががんになった後、生きる力につながりました。

 -なかにしさんは、がん治療の方法を自らの考えで選択されました。その原点ですね。ハルビンまでの逃避行では、ご著書に印象的なシーンがあります。

 はい。珠河(しゅか)(現・尚志)の駅の手前で、列車が大きな川にさしかかると、鉄橋は今にも壊れそうです。全員下車して川を渡り、貨車だけを通しました。ぬれた体で向こう岸に着き、列車に乗ろうとすると、長野県からの開拓民たちが押し寄せてきました。病人だけでも乗せてくれと、無蓋(むがい)列車の箱枠にしがみついてきます。

 将校は「離れないと、指を切り落とすぞ」と軍刀をかざし、私たちに「その手を振り払え」と叫びます。僕は最後尾の貨車だったので、彼らの手の指一本一本をもぎとるようにはがしていきました。

 その指を離せば彼らはそこで餓死するか、歩いて疲れ死ぬか、中国人の暴動で死ぬかです。指をはがしたのは僕たちの意思というより、兵隊の意思でです。逆らえば、僕たちも殺される。見殺しという言葉がありますが、見殺しに加担したことが僕の幼年期の第一の罪の意識です。はがされる人の指の感触も、顔も覚えています。

 満州で敗戦を迎えた私たちは三度にわたり、国家から見捨てられたわけです。一度目は、関東軍によって棄民されます。二度目は、「居留民はできるかぎり現地に定着せしめる」という外務省からの訓電です。そして三度目は、引き揚げ政策のGHQ(連合国軍総司令部)への丸投げでした。

 -引き揚げ船に乗ったのは翌年ですね。

 そこでも大人たちの姿に幻滅しました。満州でソ連兵の女狩りに協力した避難民へのリンチ劇…。夜には大人の男女がもぞもぞと重なり合い、うめき声をあげる。

 少年心にも、生きていてもしょうがないと。夜の暗い甲板から姉と一緒に死のうとした時、船員さんに止められます。『リンゴの唄』を聞かされ、「君たち、死んではいけない。今、日本では皆この歌を聞きながら、焼け跡から立ち上がろうとしているんだ」と。

 僕は、なぜ平気でこんな明るい歌が歌えるんだろう、と思いました。僕らは玄界灘の真っ暗な海の上をさまよい、まだ戦争は終わっていない。なのに日本人はもう新しい出発をしている。悲しくて。僕にはとても残酷な歌でした。

 中国残留孤児が日本人の生活を見たらどう思うでしょうか。自分たちの戦争はまだ終わっていない。国にも帰れない。やっと訪れたら、自分たちのことなんて忘れて、裕福に生活している。ものすごい悲しい状況でしょう。日本人の得意技ですが、過去を忘れるのが早すぎないでしょうか。私たちはいまだにそうした『リンゴの唄』を歌い続けているわけですよ。

 今年の七月の終わりごろ、生まれ育った旧満州を訪れました。帰国の拠点だった葫蘆(ころ)島には当時の駅舎や鉄道のレールが保存されていました。当時がよみがえり、たまらない気持ちになりました。

◆憲法は最高の芸術

 -日本国憲法を「芸術作品だ」と表現されていますね。

 地獄の底でも落ちる深さが深いほど、跳躍する高さは高くなるでしょう。あの戦争でアジア全体で二千万人以上が亡くなった。大変な犠牲を払い、ついに手に入れた最高の憲法ですよ。

 米国の押しつけだとか言いますね。けれど、これは戦後日本の再出発の宣言書なんです。世界に向けた宣言書。各国が認めて、反対しませんでした。世界が希望する国の形を与えてくれたとも、われわれが選んだとも言えます。大きな歴史のうねりの中で生まれた。本当に奇跡的な、最高の芸術作品だと思います。

 その憲法のもとでとにかく戦争しないで七十数年やってきました。一体これの何が不都合なのでしょうか。国民は誰ひとり戦争が起きて幸福にはならないのに、なぜ政治家のまねをして改憲に賛成しなきゃならないのか。政治家とつるんで金もうけでもたくらんでいるのでしょうか。

 「美しい日本」「取り戻す」。そうした抽象的な言葉で何に回帰したいのでしょうか。日本の理想はまだ実現されていません。この憲法の名の下にこれから実現するべきなのです。なのにその努力を怠り、反省すべきを反省せず、戦前の軍国主義を勘違いして、そこに「美」を求めるのはとんでもない反動です。

 昭和二十年までの軍国主義によってどれだけの人を悲しませ、苦しませ、犠牲にしたか。そして愚かな戦争によってどれだけの若者たちが無駄死にし、犬死にし、飢え死にしたでしょうか。そして、中国人や韓国人に対してどれだけの過ちをしたか。そうしたことを本当はもっと国民に知らせるべきなんです。

 それなのに若者はそれを知らないし、今、それを言おうとすると大変です。小泉政権のころから「日本は悪くなかった」という国民意識の改革のようなものが始まり、そうした洗脳が十年近くかけて実を結んできたわけです。国民意識の変化は怖いですよ。

 自民党は改憲を言うとき、「対案を出してくれ」と求めます。それには各党が「反対なんだから対案なんて出す必要はない」と言えばおしまいなんです。もともと改正の必要がないわけだから。そうすれば国民の目も覚めますよ。

 自民党の改憲草案は、発想が国家ありき。憲法は国民ありき、個人ありきなのに、逆転の発想がしたくてしょうがないようです。棄民思想をずっと日本はやってきたわけですが、少しも進歩していません。

◆個人が抹殺される

 -現代の「棄民」についてどうお考えですか。

 福島の原発事故が起きて、当時は民主党政権でしたが、あのときの情報を開示しない状況から思い付いたのは「棄民」でした。今も事故によって故郷を追われ、避難民生活を余儀なくされている。

 戦前、国策で満州へどんどん人を入植させました。戦争でやばくなったら、さあ帰ってらっしゃいというのが普通の国家です。今は除染されたから帰れ、帰らないと補助金はあげられないなんて棄民を絵に描いたようなものです。

 国という一つの組織となると、人格を失うというか。まさに戦争とは非常事態宣言です。個人がいかに抹殺されても国家の正義だというものが論理の上では成り立つわけですから。それでは個人がたまったものではない。犠牲になるのはすべて個人です。そう経験した人たちがだんだん減り、戦争を知らない人たちが戦争を云々(うんぬん)しているのは危険だなと思いますね。


【関連記事】

「日本は負ける」それでも戦地に 戦死の元京大生の遺稿:朝日新聞デジタル

www.asahi.com/articles/ASK843JH8K84ULZU003.html
 国のために命をなげうった人たちをどう悼むのか。明治政府の出した答えが、東京・九段の靖国神社への合祀(ごうし)だった。戦後72年のいま、自衛隊の活動範囲が広がる中で、「戦死」が現実味を帯びてきた。私たちはどう向き合うべきな ..

 

「特攻志願」少年は前に進めず 憧れの軍隊、入って暗転:朝日新聞デジタル

www.asahi.com/articles/ASK885WKTK88UOOB00S.html
15日で戦後72年。今夏も各地で、戦争体験者が語り部となっている。当時、10代の少年は、過去を直視し、歴史と向き合うことの大切さを訴えた。 長野県上田市の松本務さん(88)が海軍飛行予科練習生

 

 

 


戦没者追悼式 安倍首相 「アジア諸国への加害責任や謝罪には今年も触れず『不戦の誓い』の文言も使わず」 2017.8.15

2017-08-15 14:53:59 | 平和 戦争 自衛隊

2017.8.15
 戦没者追悼式 安倍首相 「アジア諸国への加害責任や謝罪には今年も触れず、『不戦の誓い』の文言も使わず」 

 

https://mainichi.jp/articles/20170815/k00/00e/040/235000cより転載

惨禍、伝える使命…追悼式参列、戦後生まれ最多

毎日新聞2017年8月15日 12時12分(最終更新 8月15日 14時23分)


戦没者を悼み、手を合わせる女性=東京都千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑で2017年8月15日午前9時20分、宮武祐希撮影

終戦から72年となる15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれ、天皇、皇后両陛下や遺族ら約6700人が参列した。天皇陛下はおことばで、大戦について戦後70年の2015年から3年続けて「深い反省」との表現を用い、平和を祈る気持ちを示された。安倍晋三首相は式辞で「戦争の惨禍を繰り返さない」と決意を述べる一方、歴代首相が言及したアジア諸国への加害責任や謝罪には今年も触れず「不戦の誓い」の文言も使わなかった。

 

 式典は正午前に始まり、安倍首相は「私たちが享受する平和と繁栄は、皆さまの尊い犠牲の上に築かれたもの。敬意と感謝の念をささげます」と哀悼の意を表明。「争いの温床となる貧困問題をはじめさまざまな課題に取り組み、世界の平和と繁栄に貢献したい」と語った。安倍首相は5月に憲法9条の改正に言及するなど改憲に意欲を示しているが、式辞で触れることはなかった。

 
全国戦没者追悼式で、おことばを述べられる天皇陛下=東京都千代田区で2017年8月15日午後0時3分、小川昌宏撮影

 正午過ぎからの1分間の黙とうの後、天皇陛下はおことばを読み上げ、「深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」と語った。6月に陛下の退位を実現する特例法が成立してから、陛下が式典でおことばを述べるのは初めて。退位は18年末や19年3月が検討されており、来年の追悼式にも出席する見通しだ。

 厚生労働省によると、参列予定の遺族は6~101歳の5225人。戦没者の子どもが2789人(53.4%)と最多で、兄弟姉妹394人(7.5%)、孫380人(7.3%)と続く。妻は6人と過去最少を更新し、父母の参列は7年前を最後に途絶えている。戦後生まれの人は過去最多の1339人(25.6%)となり、世代交代が進む。

 追悼される戦没者は、1937年に始まった日中戦争と、その後の第二次世界大戦で犠牲になった軍人と軍属など合わせて約230万人と、民間人約80万人。【桐野耕一】

 

 

 

 

 

 

 

 

=================================

 
<注>弓矢健児牧師コメント

全国戦没者追悼式での天皇と安倍首相の言葉づかいの違いに注目。
毎年のことですが、天皇は戦没者に対して、神道的宗教観に繋がる「御霊」とか、「御霊に祈る」という言葉を一切使わず、「命を失った人々を思い」や「心から哀悼の意を表し」という言葉で一貫しています。
それに対して安倍首相は意図的かもしれませんが、必ず戦没者を「御霊」と呼び、「御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます」、「戦没者の御霊に平安を・・心よりお祈りし」と神道的宗教観に基づく言葉を使い放題です。

どちらが憲法の政教分離の原則を守ろうとしているかは明らかです。

 

終戦の日:天皇陛下おことば・全文 戦没者追悼式


毎日新聞2017/08/15 12:15 

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。 

 終戦以来既に72年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。 

 ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

 

 ===================================

https://mainichi.jp/articles/20170815/k00/00e/040/239000cより引用

戦没者追悼式 安倍首相 式辞全文

毎日新聞2017/08/15 12:23 

 天皇、皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を、ここに挙行致します。

 

 先の大戦において、300万余の方々が、祖国を思い、家族の行く末を案じながら、苛烈を極めた戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷の地で命を落とされました。今、その御霊(みたま)の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。

 今、私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命をささげられた皆さまの尊い犠牲の上に築かれたものであります。私たちは、そのことを、ひとときも忘れることはありません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。

 戦争の惨禍を、二度と、繰り返してはならない。

 戦後、わが国は、一貫して、戦争を憎み、平和を重んずる国として、ただひたすらに、歩んでまいりました。そして、世界の平和と繁栄に力を尽くしてきました。私たちは、歴史と謙虚に向き合いながら、どのような時代であっても、この不動の方針を貫いてまいります。

 いまだ、争いが絶えることのない世界にあって、わが国は、争いの温床ともなる貧困の問題をはじめ、さまざまな課題に、真摯(しんし)に取り組むことにより、世界の平和と繁栄に貢献してまいります。そして、今を生きる世代、明日を生きる世代のため、希望に満ちた明るい未来を切り開いていく。そのことに、全力を尽くしてまいります。

 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆さまには、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。(共同)

 
【関連記事】

終戦72年、追悼式に6200人 首相、加害責任触れず:朝日新聞デジタル

 

 

 

 


沖縄戦題材「さとうきび畑」の歌50年 心のざわわ、終わらない 「平和でよかった」言えるまで 〔毎日新聞 2017.6.24〕

2017-08-15 14:21:12 | 平和 戦争 自衛隊

「さとうきび畑」 歌:森山良子


 

https://mainichi.jp/articles/20170624/ddf/001/040/012000cより転載

沖縄戦題材「さとうきび畑」の歌50年 心のざわわ、終わらない 「平和でよかった」言えるまで 

 毎日新聞2017年6月24日 大阪夕刊
 
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ--。 
太平洋戦争末期の沖縄戦を題材にした歌「さとうきび畑」の発表から今年で50年。サトウキビ畑に吹く風の音の「ざわわ」の表現に込めた鎮魂の思いが今も人の心をとらえている。
多くの歌手や、作詞作曲し、13年前に73歳で亡くなった寺島尚彦さんの遺族も歌い継いできた。遺族らは「一人一人が『平和でよかった』と言える日まで、歌の役割は終わらない」と気持ちを新たにしている。
 

作詞作曲者の遺族歌い継ぐ

 寺島さんは1964年6月、初めて沖縄を訪れた。まだ本土復帰前で、伴奏者として参加したリサイタルの翌日、摩文仁(まぶに)の丘(糸満市)に続くサトウキビ畑を案内され、地元の人の言葉に衝撃を受けた。「この土の中には戦没者の遺骨が埋もれたままなんです」。畑を吹き抜ける風の音に戦没者たちの嗚咽(おえつ)と怒号が聞こえた。

 「作曲家として沖縄の惨劇を伝えたい」。あの風の音の表現に悩んだ。サトウキビの葉がこすれる「ざわわ」にたどり着くまで約2年かかった。11番まであり、「ざわわ」を66回繰り返す歌が完成した日の夜、寺島さんは歌手でもある妻葉子さん(79)に歌わせた。「夫は沖縄での体験を伝えようと、あれからずっとひとりで悩んでいたのか」と心を動かされたという。

 歌の発表となる初演は67年5月。愛媛県新居浜市でのコンサートで歌手、田代美代子さん(73)が歌った。歌詞には戦争で亡くなった父を思う「わたし」が描かれる。父を早くに亡くした自身の経験と重ねた田代さんは「継父によくしてもらっていたが、涙を見せずに歌うのが精いっぱいだった」と振り返る。歌詞からは「わたし」の生まれた日に戦いが終わったことが示唆される。田代さんは「終戦の1945年に『わたし』が生まれたとすれば72歳。たくましく生きて孫に囲まれて暮らす姿を思い浮かべて今も歌っている」と語る。

 その後、森山良子さんや、ちあきなおみさんら70人以上の歌手らが歌った。今月、葉子さんは次女で、ソプラノ歌手の夕紗子(ゆさこ)さん(47)や森山さんらと今後も歌い継ごうと東京都内でコンサートを開いた。夕紗子さんは「父は、この歌は反戦歌ではなく、鎮魂歌だと。こういう歌が歌われなくてすむ世の中が来ればいいと話していた」と明かす。

 53年前に寺島さんが歩いたサトウキビ畑は平和祈念公園に姿を変え、2012年には読谷村に歌碑が建った。祈念公園内の施設を管理する沖縄協会の元役員で、寺島さん一家と交流してきた比嘉正詔(せいしょう)さん(74)=那覇市=は「サトウキビ畑を逃げ惑い、生き延びた一人一人の魂の記憶に訴えかける。歌い続けることが不戦の誓いになる」と話す。

 今年も巡ってきた沖縄慰霊の日。夕紗子さんは「この歌の持つ優しさや、命へのまなざしが永遠に歌い継がれてほしい」と願う。【林由紀子】

 

 

 

 


歌「死んだ男の残したものは」 谷川俊太郎作詞 武満徹作曲 ~「ベトナム平和を願う市民の会」で初めて発表 1965.4.24 

2017-08-15 13:59:19 | 平和 戦争 自衛隊
この歌は、昭和40年(1965)4月24日に開かれた「ベトナム平和を願う市民の会」で初めて発表されました。

画像に含まれている可能性があるもの:テキスト

2017.8.15
 
この歌は、昭和40年(1965)4月24日に開かれた「ベトナム平和を願う市民の会」で初めて発表されました。
 この前日、詩人の谷川俊太郎さんが作曲家武満 徹さんのところに詩を持って現れ、明日の市民集会で歌えるように曲をつけて欲しいと依頼しました。
 武満さんはその夜のうちに作曲して翌日関係者に手渡し市民集会では、バリトン歌手の友竹正則さんが歌うと共に歌唱指導も行い以後多くの反戦集会などで盛んに歌われるようになりました。
「ベトナム平和を願う市民の会」は、その後多くの市民団体を結集して作家の小田実氏を代表に「ベトナムに平和を市民連合」略称「べ平連」になりました。

 

 <!-- 小室等 死んだ男の残したものは -->