8日の甲子園の開会式で、思わぬアクシデントがあった。滝川西の先導役としてプラカード嬢を務めていた女子生徒が突然倒れた。
大会本部は、熱中症のような症状だったが、現在は回復したと発表した。倒れた生徒は大丈夫だったようです。良かった・・・!
http://sharetube.jp/article/7033/より転載
甲子園開会式で起きたハプニングは日本社会の縮図?
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8月11日、上記のような内容でtwitter/facebookにて投稿したところ、非常に多くの方から賛否両論のコメントをいただいています。 私自身、行き過ぎた表現をしたとは感じていますが、それゆえに皆さんから、高校野球の構造、日本社会の核心にも及ぶ重要な指摘が数多くありました。その問題提起のためにも、こちらで紹介していきます。
・自分の学校名のプラカード持ってる女子学生が自分の目の前で倒れたら、旗手が旗を後ろの子に渡して支えるなり介護するっていうのが普通の人間の反応ではと思うのですが?高校野球連のマニュアルがどうの、それの通りやるやらないっていうレベルではなく。マニュアルがないと行動できないというのではなく、そういう人間的な行為を尊ぶ教育が学校でも家庭でも欠けているように思います。
・最初に写真を見た時、声も出なかった。「慄然」という表現がぴったりの間隔を覚えた。日本の教育が行っていることの結果がこれなのだと考えると、もう子どもは学校に通わせるべきではないとさえ思う。朝礼・式典・運動会での整列や行進やお辞儀の仕方などへの異常な執着。また少しでも内申点を上げ少しでも偏差値の高い学校に入ることがよいことという根拠のない思い込み。定期試験や受験が終わればすべて忘れてしまうような教科書の丸暗記と自分で考え自分の意見を持つことを放棄させるような教え方。部活などのスポーツでは、非科学的な根性主義練習に黙って耐え抜くことが良いこと。勝利至上主義。こういったことを、小学校入学前から延々と学校教育の中で行ってきた結果が、目の前で倒れた人を助けに動く気持ちさえ起きないロボットを作る。ロボットにされる子どもたちも、ロボット教育をさせられている教師や親たちも、ほとんど誰も幸せではない。勝者さえも不幸だ。ごく一部の・これをどう考えるかが重要!私は今の教育は回答(しかも正解)を出すことだけに特化しているような気がします。 人生での回答は一つではありません。しかも、正解の人が偉く、不正解の人が非難されるものでもありません。 教育は自分でどうやって問題を解決するかの能力を育むモノだと思います。 この状況(女子生徒が倒れた)で誰も自ら考え、動かなかったのだとしたら日本の未来が心配です。
出典:猫並のモブログモドキ
大人(高野連)側の教育に問題があるという指摘
・ここにいたほとんどの人が、儀式の進行中における自分の態度と倒れた生徒の救護を天秤に掛け、動いていいのか良くないのか判断できず、躊躇してしまったと思います。こういうとき責任ある大人が儀式の進行を一時止めてでも救護を優先すべきだったと思います。そうすれば、今後同じような場面に遭遇したとき、高校球児たちも躊躇なく動けるようになると思います。ところが、儀式は止められることなく進行したんではないですか。それが、球児たちにどういう教育になったのか、疑問が残ります。
・この写真の選手たちの前方に、高い台に乗って訓示を述べられている偉い大人がいることを忘れないでください。彼には一部始終が見えているのです。
とみ @meow164 2017年08月11日 23:57:45
・この場面こそ、大人たちが生徒に対して教育的指導を行うチャンスなのにどうしたのかな?
・そもそも、こんな炎天下に子供を並ばせるような開会式をやってることを、なーんにも考えずに見ていられる大人がオカシイのよ。自分たちがオカシイのを棚に上げて、「今の若者は」とか「高校生たるものなんたらかんたら」「人としてどーたらこーたら」とエッラソーにのたまう神経が醜悪。
・子供たちに問題があるとは思いません。あくまでこうした開会式を演出する側の問題です。高野連や一般の体育大会の運営主体は常に一糸乱れず組織立って式が進行することを最優先することが問題なのです。会を運営する側が主体的に式を演出することは想像力、エネルギーや勇気が必要です。前例に従い、形式的に実施する方が無難で評価される社会なのです。
・問題は高野連。団体行動や規律ばかりを重んじ、選手から自由を奪っている。この炎天下に根性主義で野球をやらせ、前日200球以上投げた投手を連投させる残酷さ、学校に不祥事があると出場させないなど、もうスポーツの域を超えている。女性はベンチに入れないというのもおかしい。こんな精神主義が子供達のためになるのでしょうか。倒れた子が責任を感じたりしませんようにと願っています。高校野球はまるでプチ軍隊。
・そもそも、この35℃に達する中で、野球をすること自体が間違い。県民の連帯意識よりも子供たちの健康の方が大事。 いつもこの時期は言っているが、もう少し涼しい時期に変更するか、直射日光の当たらないナイターかドーム球場での開催に変更すべき。 これも不満ではあるが、高校野球は地方予選からテレビ中継あるのに対して、他のスポーツだと、全国大会の決勝でも中継ない事も多い。どのスポーツでも子供たちは真面目に取り組んでいるので、この辺の不公平感もなんとかして欲しい。
昔から「見て見ぬふり」はよくあること
昔からです。朝礼で倒れる子がいても保健室には連れてくが、朝礼やめないし。
休日のスポーツイベントなど保健室も空いてないし、周りの大人は何もせず、手当も保護者に連絡する訳でもなく怪我した生徒を放置とかありました。
・10数年前の神奈川県大会の開会式でした。同じようにプラカードを持った女子高生が数人バタバタと倒れたのですが、挨拶をしていた松沢成文神奈川県知事は全く関知せず長い挨拶を続けていました。球児たちは皆心配そうにしていました。 この写真の場面でも、球児よりもお構いなしに式を進行する大会関係者の方を問題にすべきと思います。
・小学校の先生が、ある少年サッカーで、誰かが倒れたら、サッカーでは、ボールを外へ蹴り出して、試合を中断するそうです。しかし、この試合では、ひとりの少年が倒れていても、試合を続行しているのを見て、この先生は、試合を止めて、みんなに注意したそうです。甲子園では、このルールがなかったのですね。野球を中止して、家に帰って、反省しなさい。なにが、全員野球か、先生に聞いてください。
社会生活でも、「見て見ぬふり」は日常茶飯事
高野連はこの事態に適切に対応したという声も
倒れた女生徒の後ろにいたのは選手宣誓を控えた生徒でした。誤解がないように新聞に載ってたコメントを掲載します。何も感じなかったわけではないのです。出典:FB憲法九条の会公開グループ | Facebook
多分ですが、選手は女子高生が倒れた時は何らかのアクションは起こしたと思います。その後、救護の係員が到着して列に戻るよう促されたのでしょう。私は何度かそのような場面を見ています。問題にすべきなのは、事態を無視して話を続ける偉いオジサンです。その行為は「女子高生のことは放っておいて良いから私の話を聞きなさい」と言っているのと同じことですから。
逆にこの状況で誰かが大声あげたらそれこそ連鎖的にパニックおきて誰か怪我するし
下手したら将棋倒しで死ぬ奴もいる
高野連はこのようなアクシデントは想定しており、代わりのプラカード嬢も用意していますし、救護係も待機しています。球児達の前方では偉い人が何事も無かったように祝辞や訓示を続け、担当の役員(女性が望ましいのは当然ですが)が駆けつけて救護に当たっている状況で、話を聞かされている球児達は何をすれば良いのでしょうか。皆さん、何が問題なのか、方向性が違いませんか。出典:FB憲法九条の会公開グループ | Facebook
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございます。 皆さんはどう感じましたか?