藤井一(はじめ)中尉は戦時下の熊谷陸軍飛行学校で、中隊長として教官を勤めていた。
戦争の傷跡が左手に残り、パイロットとしての技術を得ていなかった藤井は、主に生徒たちに戦地に赴く心構えなど、精神訓育に携わっていた。
敗戦色深まるなか、「航空兵は潔く飛行機と共に運命を共にすべし」。
「本官も必ずお前たちの後から征くからなっ!」と意気を鼓舞するしかなかった。
特攻の任を受け、勇んで飛んでいく教え子たちを見送る藤井の心中は、必ずしも穏やかではなかった。
私は何をしているのだろうかと。
死ぬことを目的とした特攻で、あの子達を戦地に送り込むだけの使命なのかと。
「本官も必ず後から征くから」と言わざるを得ない立場に、藤井自身も苦悩していた。
家庭には妻と幼い女児二人がいた。
妻に特攻の志願を話すと、「残された私達はどうやって生きて行けばいいのですか」と詰め寄られた。
生徒達との約束と、家族を守らなければならない責任感で、板挟みの藤井の心は沈み込んでいった。
再度に渡る特攻志願にも関わらず、優秀な藤井の申し出は ことごとく却下された。
そんなある日、藤井に妻子の訃報が入る。
幼子を妻自身が両脇に括り付け、12月の大川に身を投じた姿だった。
私達が居たのでは貴方はご自分のお務めが果たせないでしょうから、一足お先に逝ってお待ちしていますとの遺書が有った。
「寒かっただろうね、冷たかっただろうね」。
鬼教官の目に涙が光った。
この事件はセンセショーナルに上層部に伝えられ、藤井自身の血書嘆願により特別に「特攻」が認められたのだった。
昭和20年5月28日、藤井は小川彰少尉が操縦する飛行機に通信員として搭乗し、漸く教え子達との約束を果たすのだった。
「あとから征く」と言った上官たちが戦後いかに多く生き残ったか。
「宜しく頼む、頑張ってくれ」と言えば、責められる事も無かっただろうに。