3月11日午後2時46分に発生した三陸沖を震源とする巨大地震は一瞬のうちに多くの尊い命を奪った。そして原発事故をはじめ、二次被害、三次被害と拡大している。
常徳寺は本堂内陣の飾りが落下、墓誌一基転倒、境内の石仏数体が倒壊したが、さほど大きな被害はなかった。
◆常徳寺の被害
身代わり地蔵さまは幸い倒壊を免れたが、余震の心配もあり現在台座からはずして退避させている。
◆福島行き
私の郷里である福島県桑折町(中通り・県北)も震度6強の揺れを観測し甚大な被害を受けたようだ。震災直後は安否確認するにも通信手段が遮断され一向に連絡がとれない状態が続いた。
震災当日、たまたま上京していた福島の親類寺院副住職と友人の二本松市・寺院住職は東京で足止め。帰る手段を模索していた結果、私の乗用車を貸してほしいとの依頼があり、福島行きを決断した。出発は13日早朝。私を含め4人で福島へむかった。
高速道・鉄道が遮断されたため、車で朝5時寺を出発。この時点でガソリンは半分。上野にある24時間営業の「ドンキ・ホーテ」に立ち寄り食糧や物資を調達するも、すでに水・カップラーメンは売り切れ。道坂下の「肉のハナマサ」でかろうじて残っていたペットボトルの水を(段ボール2箱)確保。
扇大橋より首都高川口線で北上。当然東北道は通行止めのため、川口JCTで一般道へ。先ずガソリンの補給が最優先だが、沿道のGSは日曜日とあって休業か営業していても売り切れで給油を待つ車列が続く。しばらく走りかろうじて満タンにする事ができた。それからは国道4号線をただひたすら北上。ときどき休憩でコンビニに立ち寄るも乾電池・食糧は売り切れ状態。沿道の民家も北上するにつれ、被害が大きい。
ガソリンはまだ充分だが、この辺で入れておかないと帰りが心配されたので、給油を待つ車列に並び補給するも、1台千円分までの条件付きだった。ついでに灯油も買ったが、やはり1人ポリタンク1つの条件だった。
福島との県境である栃木県・矢板市内のファミリーレストランで遅い朝食。おそらく福島に入ると食事をとる場所も難しいと思われた。
いよいよ福島に入るが、所々被害の様子を撮影をしたのでご覧頂きたい。
瓦の崩壊する民家が所々に・・・ 所々で通行止め表示・・・
自衛隊の災害派遣車両が何台も・・・ 自衛隊による炊き出し・・
食糧や物資調達の為、大型スーパーには長蛇の列が・・・
二本松市内寺院では墓地の倒壊、瓦の散乱が・・・
位牌堂は位牌が落下し散乱・・・
午後3時半、福島市内の長兄宅到着。この日は長兄宅に泊めてもらうことにした。震災直後から停電・断水が続いてるとの事。
夜はローソクを灯しながらカップラーメンの夕食。時折やってくる余震で落ち着く間もない。
翌日郷里の桑折町に向かった。桑折町には私の両親が暮らしている。80歳を過ぎた老夫婦も断水・停電・電話が使えないなどでほとほと困っていた。東京から持参した水と食料を手渡し、しばらくしのいでもらうほかない。実家の隣にある親類寺院の被害は甚大で本堂が傾斜し、中も天井が落ちる寸前。境内の諸堂も崩壊寸前の建物もある。
隣町である国見町の親類寺院に行くとやはり本堂内は荘厳や位牌が落下し散乱していた。墓地の倒壊も多い。
建物等の被害はあるものの、人的被害がないことを確認して帰京することになるのだが、ここで問題になったのは帰りの燃料。たまたま従兄弟が職業上、ガソリンの備蓄をしていたので少し分けてもらった。
14日午前10時半福島出発。帰宅時間は午後9時半でした。
私の長兄は福島市、両親は桑折町、次兄は川俣町に住んでいる。いずれも原発から半径70キロ以内である。特に次兄が住む川俣町は45キロ以内にあたり、危険と隣り合わせ。現在原発近隣の住民が避難所として川俣町や福島市に退避しているが、特に川俣町は原発に近いことから避難民は埼玉スーパーアリーナに移動するらしい。
この大震災によって多くの犠牲者を出し、いまだ先行き不安な中で寒さと余震に震えながら過ごしている被災者の一刻も早く落ち着いた生活が取り戻せるように願うばかりである。
自分が出来ることは節電や無用な買占めをしないこと。そして亡くなられた方々への供養と祈りである。