コザカナです。日記に近い感想をつづります。
本日、特定秘密保護法がやはり成立したとのことでした。
私はどちらかというと紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ、といったタイプの人間ですし、政治や経済向きのことについては子供じみて無知です。
ですから以下に述べることはきわめて月並みかもしれません。ただ、私自身の漠然とした不安をまぎらわせるために書きたいと思います。
昨日の強行採決の様子をテレビ中継で見ながら、私は多数決の原理の暴力性のようなものを感じました。今回のことを支持する人は、「民主的な選挙で選ばれた国会が多数決で法を可決することに何の問題があるのか」と言う……かもしれません。多数決の原理にのっとった民主主義が絶対的な善であるなら、たしかに何の問題もないでしょう。100人のうちの一人の意見と99人が同意する意見だったら後者を重んじる。それは多くの人が当然と思うことでしょうし、私も思います。しかし、この原理だけに則すると、51人の意見は49人の意見より重んじられることになります。私としては、これは当然とまでは思えません。なにごとも極端な原理主義はよくない。
もちろん、現実問題、100のうち一匹の迷いヤギを捜して他を放っておくことなど出来ないというのは分かります。ただ、その一匹を見捨てたことへの後ろめたさを、多数派はつねに抱えていなければならないとも思います。多数派がただ多数派であるという理由だけで「自分たちこそが絶対の正義だ」と考え出すのは怖ろしい。私たちにとってこの法がそれほど必要なものだというなら、なぜもう少しゆっくり話し合ってくれなかったのでしょうか? なぜ多くの意見に耳を傾け、私たちにもっと多くを伝えてくれなかったのでしょうか? 先日プリントアウトしたばかりの法案を、私は結局ざっと読み流すことしかできませんでした。もう成立してしまったものに対して何をすればいいのか分かりませんが、とりあえずは読み続けてみます。そして心に決めました。今後はもう少し世の中のことに興味を持ちます。それから最高裁判所裁判官の国民審査をまじめにやることにします。……私はどうも「司法の番人」に夢を抱いている気がします。裁判所とユニセフと赤十字にだけは悪いことをしてほしくない。
話が逸れました。ともあれ、法は成立してしまったようです。願わくば2013年12月6日が遠い未来の歴史教科書に太字で載ったりせんことを。
本日、特定秘密保護法がやはり成立したとのことでした。
私はどちらかというと紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ、といったタイプの人間ですし、政治や経済向きのことについては子供じみて無知です。
ですから以下に述べることはきわめて月並みかもしれません。ただ、私自身の漠然とした不安をまぎらわせるために書きたいと思います。
昨日の強行採決の様子をテレビ中継で見ながら、私は多数決の原理の暴力性のようなものを感じました。今回のことを支持する人は、「民主的な選挙で選ばれた国会が多数決で法を可決することに何の問題があるのか」と言う……かもしれません。多数決の原理にのっとった民主主義が絶対的な善であるなら、たしかに何の問題もないでしょう。100人のうちの一人の意見と99人が同意する意見だったら後者を重んじる。それは多くの人が当然と思うことでしょうし、私も思います。しかし、この原理だけに則すると、51人の意見は49人の意見より重んじられることになります。私としては、これは当然とまでは思えません。なにごとも極端な原理主義はよくない。
もちろん、現実問題、100のうち一匹の迷いヤギを捜して他を放っておくことなど出来ないというのは分かります。ただ、その一匹を見捨てたことへの後ろめたさを、多数派はつねに抱えていなければならないとも思います。多数派がただ多数派であるという理由だけで「自分たちこそが絶対の正義だ」と考え出すのは怖ろしい。私たちにとってこの法がそれほど必要なものだというなら、なぜもう少しゆっくり話し合ってくれなかったのでしょうか? なぜ多くの意見に耳を傾け、私たちにもっと多くを伝えてくれなかったのでしょうか? 先日プリントアウトしたばかりの法案を、私は結局ざっと読み流すことしかできませんでした。もう成立してしまったものに対して何をすればいいのか分かりませんが、とりあえずは読み続けてみます。そして心に決めました。今後はもう少し世の中のことに興味を持ちます。それから最高裁判所裁判官の国民審査をまじめにやることにします。……私はどうも「司法の番人」に夢を抱いている気がします。裁判所とユニセフと赤十字にだけは悪いことをしてほしくない。
話が逸れました。ともあれ、法は成立してしまったようです。願わくば2013年12月6日が遠い未来の歴史教科書に太字で載ったりせんことを。
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