私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

雑記:楽園の復活 ⑤

2009-12-10 22:15:58 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイスー ⑤


 また、同じく「描かない」作家、D・ウィン=ジョーンズの『時の町の伝説』は、その面白さにも関わらず、私が駄作と断じて止まない作品である。理由は結末にある。
 第二次大戦中のロンドンから始まるこの物語の主人公の少女ヴィヴィアンは、疎開の途中で迷い込んだ「時の町」――時間の円環から切り離された永遠につづく町――でさまざまな冒険に巻きこまれ、最終的には、じつはそれ自体危うい状態にあった「時の町」の危機を救ってそこに住みついてしまう。その上両親もいっしょに! 「行きて帰りし物語」ならぬ「行きて帰らぬ物語」である。根が生真面目かつ保守的な私はこの点にもっともたまげた。ヴィヴィアンが両親とともに「時の町」にのこるという結末がどうにもしっくりこないのだ。これは単に私個人の卑小な「倫理感」のようなものなのかもしれないが――もし残る場合には、彼女は両親を戦火のロンドンに残してゆくべきだったと感じてならないのだ。あるいは、後ろ髪をひかれる思いで町を後にするべきだったと。そうであれば、あの華やかな悪夢のような「時の町」も悠久の楽園となりえたかもしれない。
 私の卑小かつ健全な倫理観は私を戒めてならない。夢の世界に棲みつくものは外界の愛する他者を捨てなければならないのだと。フロドが愛するシャイアを捨て、『ナルニア』の子どもたちが姉を「現実」に捨ててきたように。正直にいって、私は今でも帰らずに「楽園」に住みたい。『二年間の休暇』の結末はべつだん読みたくない。叶うなら悠久にダチョウを飼っていたいのだ。だがそれはできないことである。帰ることを前提とせずに腰をすえて生活をはじめた瞬間、「楽園」は単なる現実の生活の場となってしまうのだから。(――この点は『スイスのロビンソン』がよく証明してくれている気がする)。
 現実的な生活感は現実で充分事足りている。褪せゆく黄金の森に住まう〈年かさのもの〉たちが排泄物をどのように処理しているのか、凍れるナルニアのタムナス氏がどこから油漬けの小イワシを調達するのか、詳細にリアリスティックに知りたい読み手があるだろうか? あるとしたらそれは子どもだけだろう(目新しくもない持論だが、たいていの子どもらにとっては「大人たち」の「現実的な生活感」こそが何より未知の領域だろうから)。
 『ナルニア国物語』はそもそも児童文学なのだから、子どもの欲求を満たして悪いことはないが、もし仮にあの異世界が子どもらの飽くなき好奇心を満たすべく徹底的に生活のリアリズムを追及していたならば、少なくとも私は、子どもとはいえない年齢になってからあの世界に惹かれることはなかっただろう。

 「楽園」はそこに棲みついた瞬間「楽園」ではなくなってしまう。そのように考えるとき、十二の並行世界をさまようウィン=ジョーンズの作品に、私は作者の絶望を感じてならない。少女時代に大戦を経験したことが核にあるのだろうか、この作者はたしかに現実に絶望しているように思う。現実から逃れよう、逃れようとしているのに、それでも彼女のうしろから圧倒的な現実が触手を伸ばしている。どれだけの異世界を創っても彼女は「楽園」にたどりつけない。現実だけが増えてゆくのだ。
 つまるところ、私の「楽園」とは現在にあってはいけないらしい。それは失われるものでなければならない。失ってかえりみるもの、あるいは未来に夢みるものでなければ。『秘密の花園』のラストで子どもたちは園から外へと駆けだす。『トムは真夜中の庭で』の過去はついに現在とつながり「十三時の時計」は二度と鳴らなくなる。リヴェンデルやロリエンの、またナルニアの冬の森のさまを、どれほど描写が緻密であろうと「虚ろにぼやかして」いるのは、おそらくこの時の流れなのだろう。「琥珀のなかにとじこめられた」アクイラの炉辺のように、「楽園」の時は止まっている。そして、いやおうもなく流れる外界の時が、揺らめく水のように、緻密な描写全体をうっすらと覆っているのだ。

 Ⅰ終了。Ⅱに続く

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