楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑪
では女性の場合はどうか?
この点もやはりサンプルを使って考えてみたいものの、困ったことに、ごく稀な例外をのぞいて、私は女性詩人の作品にあまり「冷めたい場所」を感じたことがない。数少ない例外の一人は、D・G・ロセッティの妹クリスティナ・ロセッティだろうか。恋人が去ったあとの心地を彼女はつぎのように歌う。
May
I cannot tell you how it was;
But this I know: it came to pass
Upon a bright and breezy day
When May was young; oh, pleasant May!
As yet the poppies ware not born
Before the blade of tender corn;
The last eggs had not hatred as yet,
Nor any bird forgone its mate.
I cannot tell you what it was;
But this I know; it did but pass.
It passed away with May.
With all sweet things it passed away,
And left me old, cold, and gray.
どんなだなんて教えられない
ただ知っているだけ 過ぎるためにきたものだって
あの明るく風吹く日
よろこびにみちた五月がまだ若かったころに
やわらかな麦の葉のあいだに
ひなげしもまだ生まれず
さいごのたまごもまだかえらず
この世のどんな鳥だってつれあいを見すてないころに
なにかだなんて教えられない
ただ知っているだけ 過ぎるほかないものだったって
かがやく五月の日といっしょに
すべての甘さといっしょに 遠くすぎてしまった
老いて つめたく色あせた わたしだけをのこして
(C・ロセッティ 「五月」)
立原道造ものけぞりそうなほど甘たるく感傷的な恋歌である。ここで歌われる過去は二重のヴェールには包まれていない。きっぱりと単なる過去である。「すべての甘さといっしょに」去ってしまった「それ」が恋であることは疑う余地がなかろう。では、「それ」がどんなであったか、彼女はだれに教えられないのだろうか。つまり、ここでの「あなた」とはだれか? 去っていった「恋人」ならば教える必要はない。そうなると、ここでの「あなた」は不特定多数の「あなたがた」と考えるのが自然なのかもしれない。
C・ロセッティは実生活でも婚約者と結ばれなかった経験をもっているという。現実の心理的苦痛が彼女にこの甘たるく美しい詩句を作らせたのだろうか? 可能性は否めない。男性詩人についても同様である。妹を失った宮沢賢治が凄まじく美しい挽歌を作ったように、現実に愛する相手を失うことが、詩人に作品を作らせるきっかけになることはまま起こりうるだろう。しかし、それはあくまでひとつのきっかけにすぎない。現実に愛する相手を失ったために、彼らの内面にあたらしく「冷めたい場所」ができるわけではない。現実の喪失がきっかけとなって、そこがもともと「冷めたい場所」であったと気づかされるのだ。
その場所ではもはや「そのひと」との対話はかなわず、たとえ何を思い起こそうと、追想をいとなむ主体はつねに自分自身でしかない。そこにはつねに自分しかおらず、知覚する世界もまた自分自身の主観を通したものでしかない。これすなわち「孤独」であろう。「冷めたい場所」が自分の孤独に気づいた人間の内面に映る世界だと考えるならば、「そのひと」がだれであるかも同時にみちびきだされる。性別や血縁関係や親しさや美醜は本来関係ない。「そのひと」とは他者である。自分以外の他者すべてである。
続
では女性の場合はどうか?
この点もやはりサンプルを使って考えてみたいものの、困ったことに、ごく稀な例外をのぞいて、私は女性詩人の作品にあまり「冷めたい場所」を感じたことがない。数少ない例外の一人は、D・G・ロセッティの妹クリスティナ・ロセッティだろうか。恋人が去ったあとの心地を彼女はつぎのように歌う。
May
I cannot tell you how it was;
But this I know: it came to pass
Upon a bright and breezy day
When May was young; oh, pleasant May!
As yet the poppies ware not born
Before the blade of tender corn;
The last eggs had not hatred as yet,
Nor any bird forgone its mate.
I cannot tell you what it was;
But this I know; it did but pass.
It passed away with May.
With all sweet things it passed away,
And left me old, cold, and gray.
どんなだなんて教えられない
ただ知っているだけ 過ぎるためにきたものだって
あの明るく風吹く日
よろこびにみちた五月がまだ若かったころに
やわらかな麦の葉のあいだに
ひなげしもまだ生まれず
さいごのたまごもまだかえらず
この世のどんな鳥だってつれあいを見すてないころに
なにかだなんて教えられない
ただ知っているだけ 過ぎるほかないものだったって
かがやく五月の日といっしょに
すべての甘さといっしょに 遠くすぎてしまった
老いて つめたく色あせた わたしだけをのこして
(C・ロセッティ 「五月」)
立原道造ものけぞりそうなほど甘たるく感傷的な恋歌である。ここで歌われる過去は二重のヴェールには包まれていない。きっぱりと単なる過去である。「すべての甘さといっしょに」去ってしまった「それ」が恋であることは疑う余地がなかろう。では、「それ」がどんなであったか、彼女はだれに教えられないのだろうか。つまり、ここでの「あなた」とはだれか? 去っていった「恋人」ならば教える必要はない。そうなると、ここでの「あなた」は不特定多数の「あなたがた」と考えるのが自然なのかもしれない。
C・ロセッティは実生活でも婚約者と結ばれなかった経験をもっているという。現実の心理的苦痛が彼女にこの甘たるく美しい詩句を作らせたのだろうか? 可能性は否めない。男性詩人についても同様である。妹を失った宮沢賢治が凄まじく美しい挽歌を作ったように、現実に愛する相手を失うことが、詩人に作品を作らせるきっかけになることはまま起こりうるだろう。しかし、それはあくまでひとつのきっかけにすぎない。現実に愛する相手を失ったために、彼らの内面にあたらしく「冷めたい場所」ができるわけではない。現実の喪失がきっかけとなって、そこがもともと「冷めたい場所」であったと気づかされるのだ。
その場所ではもはや「そのひと」との対話はかなわず、たとえ何を思い起こそうと、追想をいとなむ主体はつねに自分自身でしかない。そこにはつねに自分しかおらず、知覚する世界もまた自分自身の主観を通したものでしかない。これすなわち「孤独」であろう。「冷めたい場所」が自分の孤独に気づいた人間の内面に映る世界だと考えるならば、「そのひと」がだれであるかも同時にみちびきだされる。性別や血縁関係や親しさや美醜は本来関係ない。「そのひと」とは他者である。自分以外の他者すべてである。
続
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます