私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

雑記:楽園の復活 ⑩

2009-12-15 23:46:24 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑩


 いったい「そのひと」とはだれか? 後者の場合女性であることはまちがいないし、前者もおそらく女性であろうが、どちらの詩句の場合も「そのひと」は詩人の相愛の恋人ではない。前者は「そのひと」の死を悼みながら、自分自身を「おそらくあなたの記憶に何のしるしも持たなかつた」ものだと歌い、後者は「そのひと」が死んで埋められたあとを夢に見ている。また、前者は「そのひと」に対して「あなた」と呼びかけるが、「あなた」はそもそも彼を知らない。後者が呼ぶ「おまえ」とは、詩人自身なのかそれ以外なのか判然としないものの、おそらく「そのひと」のことではなかろう。「そのひと」に対する詩人の悼みはどちらも完全に一方通行である。
 この点は上述した伊東静雄の詩句の場合も同様である。詩人は、何か明記されない主体に対して、「私が愛し そのため私につらいひと」に「未知の野の彼方」を信じさせよと望むが、「そのひと」自身に対して「信ぜよ」とは呼びかけていない。ロセッティが歌う「あなた」の場合は、「そのひと」の首が振りかえった瞬間に彼自身が醒めてしまう。いずれの場合にも、詩人と「そのひと」とのあいだに対話はなされないのだ。

 ここで挙げた四名の詩人はすべて男性である。男性である詩人たちがひとしく悼む「わたし」が愛し、「むかし手にしていた」、だが今はもう手にしていない女性。これを母親と断じるのはあまりに通俗的にすぎるだろうか? しかし、じっさいのところ、私が濃密な「詩情」を感じる男性作家の作品には非常にしばしば母恋いのモチーフが見られる。もっともこの場合の「母」とは、かならずしも現実の母親ではないのかもしれない。「かつて一度は他人でなかった唯一の相手」といった、いささか理に流れた感のある観念的な母親像である。彼らは、「その人」の面影を、母親のみならず、姉や妹や美しい叔母や、相愛にせよ片恋にせよ現実の恋人たちにかさねる。
 では女性の場合はどうか? 

 続

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