楽園の復活―マイ・コールド・プレイスー ⑬
Ⅲ
なにしろ素材が私個人の主観であるため、「詩情」ある文芸作品の香気の源を探っているのか、香気を感じる自分自身の心理を腑分けしているのかしだいに分からなくなってきたが、こうして考え合せてみると、私にとっての「楽園」と「冷めたい場所」とはやはり同じ場所であったらしい。けっきょくのところ、そのふたつは個人の内面世界というやつだったのだろう。「冷めたい場所」は現在である。「楽園」は現在から鑑みる過去か未来である。そうなると「未来から鑑みる現在」もまた「楽園」たりえるのかもしれない。この考えは、おそらく、「冷めたい場所」の住人たちにはごくありふれた救いの発想だろう。荒れ野に白い花を望んだ伊東静雄は次のようにも歌う。
輝かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中で
それらは狡く
いい時と場所とをえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚えるいづれもの沼は
それでちつぽけですんだのだ
私はうたはない
短かかつた輝かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
美しくも分かりやすい感傷である。この感傷の分かりやすさを私は愛する。少なくとも私にとって、「楽園」を――「詩情」を――分かりやすく美しい感傷を欠いた物語はきわめて魅力あるものとはいえない。昨今のファンタジー作品は……と、トールキン信者が口にすると「年長者は千年前から「昨今の若者は」と嘆く」と自分自身茶々を入れたくなるが、それでもやはり言う。昨今のファンタジー作品の多くは私に「楽園」を見せてくれない。「今ここにいる」ような登場人物たちや、スピーディな場面展開や、意表をついた世界設定や、山あり谷あり断崖ありのめくるめく複雑な筋立なども、もちろん魅力的なものである。だが、たいていの場合、そこには過去も未来もない。臨場感と引きかえに悠久を売り払ってしまったのだ。
続
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なにしろ素材が私個人の主観であるため、「詩情」ある文芸作品の香気の源を探っているのか、香気を感じる自分自身の心理を腑分けしているのかしだいに分からなくなってきたが、こうして考え合せてみると、私にとっての「楽園」と「冷めたい場所」とはやはり同じ場所であったらしい。けっきょくのところ、そのふたつは個人の内面世界というやつだったのだろう。「冷めたい場所」は現在である。「楽園」は現在から鑑みる過去か未来である。そうなると「未来から鑑みる現在」もまた「楽園」たりえるのかもしれない。この考えは、おそらく、「冷めたい場所」の住人たちにはごくありふれた救いの発想だろう。荒れ野に白い花を望んだ伊東静雄は次のようにも歌う。
輝かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中で
それらは狡く
いい時と場所とをえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚えるいづれもの沼は
それでちつぽけですんだのだ
私はうたはない
短かかつた輝かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
美しくも分かりやすい感傷である。この感傷の分かりやすさを私は愛する。少なくとも私にとって、「楽園」を――「詩情」を――分かりやすく美しい感傷を欠いた物語はきわめて魅力あるものとはいえない。昨今のファンタジー作品は……と、トールキン信者が口にすると「年長者は千年前から「昨今の若者は」と嘆く」と自分自身茶々を入れたくなるが、それでもやはり言う。昨今のファンタジー作品の多くは私に「楽園」を見せてくれない。「今ここにいる」ような登場人物たちや、スピーディな場面展開や、意表をついた世界設定や、山あり谷あり断崖ありのめくるめく複雑な筋立なども、もちろん魅力的なものである。だが、たいていの場合、そこには過去も未来もない。臨場感と引きかえに悠久を売り払ってしまったのだ。
続
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