A・マーヴェル Eyes and Tears 他について
虚ろをながめる目 ③
「わたし」の心が知覚しているだけではない、外の世界に確固として(「わたし」の知覚とは無縁に)存在する何か価値あるもの。
そうしたものに焦がれつづける詩人というのは、古今東西を問わずひとつの型として存在するように思う(古今東西――といっても、私が言語で愉しめる詩歌は日本語圏と英語圏のものに限られているのだが)。
ほんの数編を読んだばかりで断じるのははばかられるが、私は、この「まなことなみだと」の作者にも同じ種類の匂いを感じた。キリスト教文化圏でもっとも手軽な「価値ある絶対的な他者」といえばもちろんGODだろう。「わたくし」が茨の冠を被せつづけた「わたくしの救い主」に向けて訴えかける「王冠」のはじめの部分で、詩人は次のように詠う。
わたくしのあまりに久しく
あまたの傷をつけて
わたくしの救い主のつむりに
かむせたいばらの代わりに
花の環であやまちのつぐないをしようと
あらゆる園をつうじて あらゆる野原をつうじて
わたくしは花々をあつめるのです(わたくしの実はただ花のみなのです)
そうしてあつめた「花々」で彼は「誉れの君のまだかつて被らぬまでに豊かな」花輪を編もうと志すが、その思いの中に、みずから「名欲しさと我欲」を見出してしまう。
これはずいぶんと冷静な観察である。「わたくし」がかつて傷つけてしまった「わたくしの救い主」のために償いの花輪を編みたい――という一見ひどくへりくだった思いが自然な「心の動き」であるなら、そこに容赦なく「我欲」を見出す目は「その動きを観察している部分」だろう。無私であるべき償いの欲求の内に「我欲」というヘビを見出してしまった以上、彼はもう「わたくしの救い主」の頭に虚心に花輪を捧げることができないのだ。そのために、彼はその「花輪」を壊して欲しいと望む。
この切々とした訴えを見るかぎり、「まさに動いている部分」と「その動きを観察している部分」とに内面をつねに分かっておくのは、やはりそう安らかな状態とは感じられない。「今わたしは花をみて美しいと感じている。だがそれはわたし個人の主観に過ぎない」とつねに意識していることは、感覚的な歓びを味わいつくす助けにはならないだろう。そんなことをつねに自覚していては、知覚するものすべてが実体のないものと感じられてしまう。実体のないもの、すなわち「虚ろなもの」と。
続
虚ろをながめる目 ③
「わたし」の心が知覚しているだけではない、外の世界に確固として(「わたし」の知覚とは無縁に)存在する何か価値あるもの。
そうしたものに焦がれつづける詩人というのは、古今東西を問わずひとつの型として存在するように思う(古今東西――といっても、私が言語で愉しめる詩歌は日本語圏と英語圏のものに限られているのだが)。
ほんの数編を読んだばかりで断じるのははばかられるが、私は、この「まなことなみだと」の作者にも同じ種類の匂いを感じた。キリスト教文化圏でもっとも手軽な「価値ある絶対的な他者」といえばもちろんGODだろう。「わたくし」が茨の冠を被せつづけた「わたくしの救い主」に向けて訴えかける「王冠」のはじめの部分で、詩人は次のように詠う。
わたくしのあまりに久しく
あまたの傷をつけて
わたくしの救い主のつむりに
かむせたいばらの代わりに
花の環であやまちのつぐないをしようと
あらゆる園をつうじて あらゆる野原をつうじて
わたくしは花々をあつめるのです(わたくしの実はただ花のみなのです)
そうしてあつめた「花々」で彼は「誉れの君のまだかつて被らぬまでに豊かな」花輪を編もうと志すが、その思いの中に、みずから「名欲しさと我欲」を見出してしまう。
これはずいぶんと冷静な観察である。「わたくし」がかつて傷つけてしまった「わたくしの救い主」のために償いの花輪を編みたい――という一見ひどくへりくだった思いが自然な「心の動き」であるなら、そこに容赦なく「我欲」を見出す目は「その動きを観察している部分」だろう。無私であるべき償いの欲求の内に「我欲」というヘビを見出してしまった以上、彼はもう「わたくしの救い主」の頭に虚心に花輪を捧げることができないのだ。そのために、彼はその「花輪」を壊して欲しいと望む。
この切々とした訴えを見るかぎり、「まさに動いている部分」と「その動きを観察している部分」とに内面をつねに分かっておくのは、やはりそう安らかな状態とは感じられない。「今わたしは花をみて美しいと感じている。だがそれはわたし個人の主観に過ぎない」とつねに意識していることは、感覚的な歓びを味わいつくす助けにはならないだろう。そんなことをつねに自覚していては、知覚するものすべてが実体のないものと感じられてしまう。実体のないもの、すなわち「虚ろなもの」と。
続
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