私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

雑記:楽園の復活 ⑬

2009-12-18 17:49:45 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイスー ⑬


 Ⅲ

 なにしろ素材が私個人の主観であるため、「詩情」ある文芸作品の香気の源を探っているのか、香気を感じる自分自身の心理を腑分けしているのかしだいに分からなくなってきたが、こうして考え合せてみると、私にとっての「楽園」と「冷めたい場所」とはやはり同じ場所であったらしい。けっきょくのところ、そのふたつは個人の内面世界というやつだったのだろう。「冷めたい場所」は現在である。「楽園」は現在から鑑みる過去か未来である。そうなると「未来から鑑みる現在」もまた「楽園」たりえるのかもしれない。この考えは、おそらく、「冷めたい場所」の住人たちにはごくありふれた救いの発想だろう。荒れ野に白い花を望んだ伊東静雄は次のようにも歌う。

 輝かしかつた短い日のことを
 ひとびとは歌ふ
 ひとびとの思ひ出の中で
 それらは狡く
 いい時と場所とをえらんだのだ
 ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
 ひとの目を囚えるいづれもの沼は
 それでちつぽけですんだのだ
 私はうたはない
 短かかつた輝かしい日のことを
 寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ

 美しくも分かりやすい感傷である。この感傷の分かりやすさを私は愛する。少なくとも私にとって、「楽園」を――「詩情」を――分かりやすく美しい感傷を欠いた物語はきわめて魅力あるものとはいえない。昨今のファンタジー作品は……と、トールキン信者が口にすると「年長者は千年前から「昨今の若者は」と嘆く」と自分自身茶々を入れたくなるが、それでもやはり言う。昨今のファンタジー作品の多くは私に「楽園」を見せてくれない。「今ここにいる」ような登場人物たちや、スピーディな場面展開や、意表をついた世界設定や、山あり谷あり断崖ありのめくるめく複雑な筋立なども、もちろん魅力的なものである。だが、たいていの場合、そこには過去も未来もない。臨場感と引きかえに悠久を売り払ってしまったのだ。

 続

雑記:楽園の復活 ⑫

2009-12-17 19:49:58 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑫


 自我をもつ人間はすべからく孤独である――とは、またえらく古雅なテーゼに辿りついてしまったものだが、私が惹かれる「詩情」の源にあるもののひとつが「孤独」であることは、やはり間違いないように思う。そのように考えれば、私が同性である女性詩人の作品よりも近世以降の男性のものに惹かれがちな理由にいくらか説明がつく。どういうわけか全体にわが同胞たる女性たちはあまり孤独を歌わないのだ。むろん人類の半分全般が生まれつき残りの半分より孤独に耐性があるわけではないだろう。その点は人種国籍老若男女を問わず個人差が大きいはずである。ただ、一般にさまざまな面で受動的な立場におかれることが多かった立場の人間たちは、そのためにこそ、主体性と結びついた孤独に気づかされる機会が少なかったのかもしれない。
 あめつちにわれひとりいてたつごとき寂しさを恬淡とほほ笑めてしまったら解脱まであと一歩である。穢土に菩薩はめったにいない。善良な優婆夷優婆塞はその寂しさに耐えきれない。私が惹かれる「詩情」の根幹をなすものは、不運にも自他の区別にはっきりと気づいてしまった人間があげる人恋いの叫びであり、「楽園」とは「かつては自分も孤独ではなかった」と感じたがっている人間が荒れ野にひとり立つ心地を抱いて憧れつづける場所である。いささかならず感傷的な表現だが、あえて定義を下すならそんなところになるのかもしれない。その場所は過去か未来にあり、ただ現在にだけはない。


 Ⅱ終了。Ⅲに続く。

雑記:楽園の復活 ⑪

2009-12-16 17:07:33 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑪


 では女性の場合はどうか?
 この点もやはりサンプルを使って考えてみたいものの、困ったことに、ごく稀な例外をのぞいて、私は女性詩人の作品にあまり「冷めたい場所」を感じたことがない。数少ない例外の一人は、D・G・ロセッティの妹クリスティナ・ロセッティだろうか。恋人が去ったあとの心地を彼女はつぎのように歌う。


May

I cannot tell you how it was;
But this I know: it came to pass
Upon a bright and breezy day
When May was young; oh, pleasant May!
As yet the poppies ware not born
Before the blade of tender corn;
The last eggs had not hatred as yet,
Nor any bird forgone its mate.

I cannot tell you what it was;
But this I know; it did but pass.
It passed away with May.
With all sweet things it passed away,
And left me old, cold, and gray.


どんなだなんて教えられない
ただ知っているだけ 過ぎるためにきたものだって
あの明るく風吹く日
よろこびにみちた五月がまだ若かったころに
やわらかな麦の葉のあいだに
ひなげしもまだ生まれず
さいごのたまごもまだかえらず
この世のどんな鳥だってつれあいを見すてないころに

なにかだなんて教えられない
ただ知っているだけ 過ぎるほかないものだったって
かがやく五月の日といっしょに
すべての甘さといっしょに 遠くすぎてしまった
老いて つめたく色あせた わたしだけをのこして
                (C・ロセッティ 「五月」)


 立原道造ものけぞりそうなほど甘たるく感傷的な恋歌である。ここで歌われる過去は二重のヴェールには包まれていない。きっぱりと単なる過去である。「すべての甘さといっしょに」去ってしまった「それ」が恋であることは疑う余地がなかろう。では、「それ」がどんなであったか、彼女はだれに教えられないのだろうか。つまり、ここでの「あなた」とはだれか? 去っていった「恋人」ならば教える必要はない。そうなると、ここでの「あなた」は不特定多数の「あなたがた」と考えるのが自然なのかもしれない。
 C・ロセッティは実生活でも婚約者と結ばれなかった経験をもっているという。現実の心理的苦痛が彼女にこの甘たるく美しい詩句を作らせたのだろうか? 可能性は否めない。男性詩人についても同様である。妹を失った宮沢賢治が凄まじく美しい挽歌を作ったように、現実に愛する相手を失うことが、詩人に作品を作らせるきっかけになることはまま起こりうるだろう。しかし、それはあくまでひとつのきっかけにすぎない。現実に愛する相手を失ったために、彼らの内面にあたらしく「冷めたい場所」ができるわけではない。現実の喪失がきっかけとなって、そこがもともと「冷めたい場所」であったと気づかされるのだ。
 その場所ではもはや「そのひと」との対話はかなわず、たとえ何を思い起こそうと、追想をいとなむ主体はつねに自分自身でしかない。そこにはつねに自分しかおらず、知覚する世界もまた自分自身の主観を通したものでしかない。これすなわち「孤独」であろう。「冷めたい場所」が自分の孤独に気づいた人間の内面に映る世界だと考えるならば、「そのひと」がだれであるかも同時にみちびきだされる。性別や血縁関係や親しさや美醜は本来関係ない。「そのひと」とは他者である。自分以外の他者すべてである。

 続

雑記:楽園の復活 ⑩

2009-12-15 23:46:24 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑩


 いったい「そのひと」とはだれか? 後者の場合女性であることはまちがいないし、前者もおそらく女性であろうが、どちらの詩句の場合も「そのひと」は詩人の相愛の恋人ではない。前者は「そのひと」の死を悼みながら、自分自身を「おそらくあなたの記憶に何のしるしも持たなかつた」ものだと歌い、後者は「そのひと」が死んで埋められたあとを夢に見ている。また、前者は「そのひと」に対して「あなた」と呼びかけるが、「あなた」はそもそも彼を知らない。後者が呼ぶ「おまえ」とは、詩人自身なのかそれ以外なのか判然としないものの、おそらく「そのひと」のことではなかろう。「そのひと」に対する詩人の悼みはどちらも完全に一方通行である。
 この点は上述した伊東静雄の詩句の場合も同様である。詩人は、何か明記されない主体に対して、「私が愛し そのため私につらいひと」に「未知の野の彼方」を信じさせよと望むが、「そのひと」自身に対して「信ぜよ」とは呼びかけていない。ロセッティが歌う「あなた」の場合は、「そのひと」の首が振りかえった瞬間に彼自身が醒めてしまう。いずれの場合にも、詩人と「そのひと」とのあいだに対話はなされないのだ。

 ここで挙げた四名の詩人はすべて男性である。男性である詩人たちがひとしく悼む「わたし」が愛し、「むかし手にしていた」、だが今はもう手にしていない女性。これを母親と断じるのはあまりに通俗的にすぎるだろうか? しかし、じっさいのところ、私が濃密な「詩情」を感じる男性作家の作品には非常にしばしば母恋いのモチーフが見られる。もっともこの場合の「母」とは、かならずしも現実の母親ではないのかもしれない。「かつて一度は他人でなかった唯一の相手」といった、いささか理に流れた感のある観念的な母親像である。彼らは、「その人」の面影を、母親のみならず、姉や妹や美しい叔母や、相愛にせよ片恋にせよ現実の恋人たちにかさねる。
 では女性の場合はどうか? 

 続

雑記:楽園の復活 ⑨

2009-12-14 20:53:01 | 自作雑文 楽園の復活
  楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑨


 洋の古今を問わず、「冷めたい場所」の住人たちはつねにその人に憧れている気がする。「そのひと」は桃花の枝の下に立つ豊麗な娘子であったり、雲居の貴女であったり、異郷で死んだ見も知らない貴婦人であったりする。選れた抒情詩人でありながら「冷めたい場所」に立ちつくす絶望とは無縁であったように感じられる立原道造――音楽的な言葉の美と定型詩の可能性を信じ、逞しいまでの冷静さで詩句を刻みつくした詩人が詠う「林檎みどりに結ぶ木の下に面影は永久に眠るべし」という一節は、W・B・イェイツの次の詩句と実によく似ている。以下、少々長くなるが双方を並べてみたい。


 まなかひに幾たびか 立ちもとほつたかげは
 うつし世に まぼろしとなつて 忘れられた
 見知らぬ土地に 林檎の花のにほふ頃
 見おぼえのない とほい晴夜の星空の下で
  
  その空に夏と春との交代が慌しくはなかつたか
  ――嘗てあなたのほほゑみは 僕のためにはなかつた
  ――あなたの声は 僕のためにはひびかなかつた
  あなたのしづかな病と死は 夢のうちの歌のやうだ

  こよひ湧くこの悲哀に灯をいれて
  うししほれた乏しい薔薇をささげ あなたのために
  傷ついた月の光といつしよに これは僕の通夜だ

  おそらくあなたの記憶に何のしるしも持たなかつた
  そしてまたこのかなしみさへゆるされてはゐない者の――
  《林檎みどりに結ぶ樹の下におもかげはとはに眠るべし》
                      (立原道造 「みまかれる美しきひとに」)


I DREAMD that one had died in a strange place
Near no accustomed hand;
And they had nailed the boads above her face,
The peasants of that land,
And, wondering planted by her solitude
A cypress and a yew:

I came, and wrote upon a cross of wood.
Man had no more to do:
She was more beautiful than thy first love,
The lady by the tree.
And gazed upon the mournful stars above,
and heard the mournful breeze

 とつくにで みまかれるひとの 夢をみた
 なじみの手ひとつそばになく
 そのひとのかんばせをおおうひつぎに
 土地ものが くぎをうって
 いぶかり 二本の木をうえた 
さびしい墓所のかたえに
 いとすぎとイチイの木を

わたしはおとずれ かきつけた 
そのひとの木でできた十字に
人の手に そのうえできることはなく
   木々のかたえのひとよ
   おまえのはじめの恋よりも 美しかったひとよ と
そして悼みの星ぼしをあおぎ
悼みの風をきいた
            (W・B・イェイツ 「死を夢む」)


 こうして並べると類似はいっそう際立つ。二人の詩人たちどちらも、「今」から見て二重に過去の「できごと」を――あるいは幻想を――歌う。前者の場合には、「かげ」が「まなかいに幾たびかたちもとおつた」ときがより現在から遠くにあり、「忘れられた」ときがより近い過去にある。後者の時制は一目瞭然であろう。「夢をみた」ときがより現在に近く、「そのひと」が死んだときは夢のさらに過去にある。つい「遠近」という尺度を使ってしまったものの、感覚的には、これらの二重の過去は、直線的な時系列に沿うのではなく、むしろ二重の球体のように重なり合っている印象を受ける。「遠近」で測るよりは「深浅」のほうが似つかわしいかもしれない。「かげ」と夢の内容とは、どちらも「今」から見て二重の追想の深くにあるのだ。そしてどちらにもよく似た「ひと」がいる。「見知らぬ土地」で死んだ「美しいひと」である。


 続