これは、私が20代後半の
30年前の話だ。
若い私にとって非常に辛い出来事でした。
遁走(とんそう)とはなんぞやっ!!
豚が走る。
ちがう!!
遁走 :人に告げずに居場所を離れ、放浪する。
その間のことが追想できないことや新しい自己同一性を装うことも多い。
当事わたしは29歳。
3歳になった三男が、ようやく幼稚園へ通い出した年だった。
体力的にエネルギーを使う子育ての時期がまだまだ続く。
男の子3人の子育てに加え、長男が1歳になった頃から我が家には常に、会社の従業員たちが居候をしていた。
大阪に住む夫の兄にいたっては、結婚後まもなくこの家に転がり込んできて実に10年近く同居していたのだった。
(大阪に、自分の家庭があるというのに)
(10年後、博打で借金を作った義兄を我が家から出ていってもらった。)
新婚まもないわたしたちなのに二人だけの時間はないに等しかった。
14歳年上の義兄は、男気のあるきっぷのいい男だ。
細かい事にはこだわらず気さくな義兄は世間ではアウトロー的な人たちからの人望も厚い。
高校中退の悪がき、元暴走族等いわゆるいわくつきの若い子達を、彼らの両親に頼まれて、面倒見のいい夫の兄が引き受ける事もあった。
義兄は私にこういうのだった。
「なあ妹(わたしのこと)、まあ今回も頼むわ、17の悪餓鬼だ。面倒みたってくれ」
半ば強制的に有無も言わさず彼らの一切合切の面倒を見る羽目になったわたし。
自分の家でありながら、裸でうろうろすることさえままならず、 若い子に気を使いもって生活をしていた。
山のような洗濯は、回せど回せど終わらず、
食事では、わたしの分のご飯が足りなくなる事もあった。
御風呂は終い湯のわたしのときには、水だった・・という事も。
多いときで、一度に5人の居候を抱えてこともあり、過労で入院を余儀なくされた事もある。
10人もの兄弟のいる夫と結婚したのは私が21歳のとき。
結婚後夫は自分で独立、会社を起こすがそう簡単に軌道には乗らない。
主人の実家は船場の商家、帰化しているもののお国の違いもありストレスは相当のもので、私が頼れる唯一の人が夫だった。
どんなに辛くても、夫が守ってくれる(はず)。
こうしてわたしが頑張っていればわたしより7歳年上の夫がわたしを常にフォローしてくれるものだと 信じて疑わなかったあの頃。
2人目の子どもができて間もない頃、 会社は7000万近くの不渡り手形を受けてしまう。
夫の会社は一度倒産している。
このことで、数年は銀行からの融資を 受けられなかったこの時期が夫にとって、一番辛い時期だったのだろう。
会社の話は、あまりしない人だったがそこは夫婦だ。
夫の顔色を見ればなんとなくわかるものだ。
「会社たたんで、税理士にでもなろうかな」
時々、こんなことをぼそっといってみたり、
「疲れた」「会社行きたくない」 と、夫らしくない弱音を吐いた。
そして、4月の末ごろ、夫はなにも言わずに、忽然と姿を消したのだった。
お互い、
今日これからも
ステキな時間が過ごせますように。
コメ、ありがとうございました😊
テル
前にも苦労を少しお話されてましたけど、
本当に壮絶ですね。
酷い、とここで私が言うのはお門違いでしょうけど…。
もうそんなことはkumanekoさんご本人が
さんざん思って、消化されてきたのでしょうけど。
今は良い日々を過ごされていることを願います。
太極拳のクラスは順調ですか?
たしか先生になられたのですよね😊
嬉しいこといっぱいの日々をお過ごしください🌸
コメントありがとうございます。初日無事終わりました。
blogのタイトル『本日も波瀾万丈』ですからねw
主人や身内で随分苦労した分(進行中?)、強くなりましたね。
というか、強くならないとやっていけない。
本が書けるよ、と言われます。「血脈」「花房一族」。