先週、時間をうまく使って、生麦事件の現場を見学してきました。
職場からも近く、また、授業でもちょうど生麦事件にさしかかってきたので・・・
前の学校の周辺にも、教科書の歴史にも関わりが深い史跡がたくさんありました。今度も、調べ始めるといろいろわかってきました。意欲的に調べ、現地を訪ねてみたいと思います。
さて、生麦事件は、1862(文久2)年、神奈川宿に近い生麦村で、文久の改革を行って薩摩に帰る島津久光の大名行列に遭遇したイギリス人が非礼をとがめられ、殺傷された事件です。
この事件が原因で、翌年1863年に薩英戦争が起こっています。
簡単に下調べしただけで出かけたのですが、まず、京浜急行・生麦駅で下車、生麦小学校の方向を目指して歩きました。方向としては品川方面。
大名行列も行き交った旧東海道は、第一京浜と一致している場所と、そうでない場所があり、生麦のあたりは、第一京浜とは別の、あまり交通量の多くない、住宅地の中にある普通の道、という雰囲気です。小学校のグランドからさらに東よりの道に出ると、それが旧東海道。
そして、注意深く道を歩いて行くと、イギリス人が切りつけられたその現場に説明板が掲示されているのが見つかりました。住所は、生麦3-16付近。駅から10分もあればたどり着けます。
ここで外国人4人、うち女性1人が大名行列通過の際に下馬しなかったために切りつけられたという説明が書いてあります。
道は、こんな感じです。150年前、ここを大名行列が通過し、ここで事件が起きたのか、と、その騒擾を思い浮かべてみたりして。
さらに、ここからイギリス人一行は傷を負いながらも神奈川宿(今の横浜)方面へ馬で逃げるわけですが、そのうちの一人、リチャードソンが絶命した場所に石碑が立っています。
ただし、この石碑は、横浜環状北線建設工事のために、現在は、実際の場所からもっと川崎寄りに移設されています。平成22年8月から平成28年末までここにあって、後で戻されるようです。
発生現場から10分くらい旧東海道を歩くと到達します。
石碑には、スマイルズの『西国立志編』を訳した中村正直の詩(撰文)が刻まれていました。明治16年(1883)に建てられていますから、事件から20年以上経っています。
石碑は、「文久二年」という文字からはじまり、それらの文字はクッキリとして読みとることができます。
内容は、死亡したイギリス人リチャードソンにささげる詩の形になっています。説明板に活字でその内容が記されています。
その中の一文、
「万国に史(ふひと)有り君が名を伝う」
とあります。世界中に歴史家(歴史の記録者)がいて君の名前を伝えるだろう、と。
私も、こうしてここに書くことで伝えたよ、という気分です。
発生現場から石碑までのちょうど道半ばあたりに、キリンビールの工場の入り口があります。無料で1杯は飲ませてくれるらしいですが。そして、石碑の近くに、キリンビールのレストラン、キリン横浜ビアビレッジの入り口がありました。工場見学もできる施設らしいです。私はこういう施設があるのをこれまで知りませんでした。今度改めて来てみようかな。ビールはせいぜい1杯くらいしか飲めませんが。
ちなみに、どうしてこの地域を「生麦」というのかですが、江戸時代、2代将軍秀忠の行列が、この地域を通りかかった時に、道に水がたまっていて、通行できなかったそうです。そこで、村の人たちが、街道の脇の生麦を刈り取って道に敷いて、通れるようにしたとのこと。秀忠は感謝として、この一帯に生麦という地名を与え、村人に漁業を営むに関して特別な権利を与えた、と書いてあるのを見かけました。いずれにせよ麦畑があったようですね。
キリンビールの工場も麦にひっかけてここに建てたのでしょうか?
職場からも近く、また、授業でもちょうど生麦事件にさしかかってきたので・・・
前の学校の周辺にも、教科書の歴史にも関わりが深い史跡がたくさんありました。今度も、調べ始めるといろいろわかってきました。意欲的に調べ、現地を訪ねてみたいと思います。
さて、生麦事件は、1862(文久2)年、神奈川宿に近い生麦村で、文久の改革を行って薩摩に帰る島津久光の大名行列に遭遇したイギリス人が非礼をとがめられ、殺傷された事件です。
この事件が原因で、翌年1863年に薩英戦争が起こっています。
簡単に下調べしただけで出かけたのですが、まず、京浜急行・生麦駅で下車、生麦小学校の方向を目指して歩きました。方向としては品川方面。
大名行列も行き交った旧東海道は、第一京浜と一致している場所と、そうでない場所があり、生麦のあたりは、第一京浜とは別の、あまり交通量の多くない、住宅地の中にある普通の道、という雰囲気です。小学校のグランドからさらに東よりの道に出ると、それが旧東海道。
そして、注意深く道を歩いて行くと、イギリス人が切りつけられたその現場に説明板が掲示されているのが見つかりました。住所は、生麦3-16付近。駅から10分もあればたどり着けます。
ここで外国人4人、うち女性1人が大名行列通過の際に下馬しなかったために切りつけられたという説明が書いてあります。
道は、こんな感じです。150年前、ここを大名行列が通過し、ここで事件が起きたのか、と、その騒擾を思い浮かべてみたりして。
さらに、ここからイギリス人一行は傷を負いながらも神奈川宿(今の横浜)方面へ馬で逃げるわけですが、そのうちの一人、リチャードソンが絶命した場所に石碑が立っています。
ただし、この石碑は、横浜環状北線建設工事のために、現在は、実際の場所からもっと川崎寄りに移設されています。平成22年8月から平成28年末までここにあって、後で戻されるようです。
発生現場から10分くらい旧東海道を歩くと到達します。
石碑には、スマイルズの『西国立志編』を訳した中村正直の詩(撰文)が刻まれていました。明治16年(1883)に建てられていますから、事件から20年以上経っています。
石碑は、「文久二年」という文字からはじまり、それらの文字はクッキリとして読みとることができます。
内容は、死亡したイギリス人リチャードソンにささげる詩の形になっています。説明板に活字でその内容が記されています。
その中の一文、
「万国に史(ふひと)有り君が名を伝う」
とあります。世界中に歴史家(歴史の記録者)がいて君の名前を伝えるだろう、と。
私も、こうしてここに書くことで伝えたよ、という気分です。
発生現場から石碑までのちょうど道半ばあたりに、キリンビールの工場の入り口があります。無料で1杯は飲ませてくれるらしいですが。そして、石碑の近くに、キリンビールのレストラン、キリン横浜ビアビレッジの入り口がありました。工場見学もできる施設らしいです。私はこういう施設があるのをこれまで知りませんでした。今度改めて来てみようかな。ビールはせいぜい1杯くらいしか飲めませんが。
ちなみに、どうしてこの地域を「生麦」というのかですが、江戸時代、2代将軍秀忠の行列が、この地域を通りかかった時に、道に水がたまっていて、通行できなかったそうです。そこで、村の人たちが、街道の脇の生麦を刈り取って道に敷いて、通れるようにしたとのこと。秀忠は感謝として、この一帯に生麦という地名を与え、村人に漁業を営むに関して特別な権利を与えた、と書いてあるのを見かけました。いずれにせよ麦畑があったようですね。
キリンビールの工場も麦にひっかけてここに建てたのでしょうか?