2月1日のほるたま考古学セミナーの報告の中から、今日紹介するのは、「玉つくり」です。以下、レジュメや講演の内容から「私にとって」必要な情報をまとめます。
埼玉・反町遺跡は、日本で一番古い水晶勾玉製作地(古墳時代としては?かな やや説明が不足していると思いました)なのだそうです。古墳時代前期のことです。
住居跡で水晶製の遺物が大量に発見されたのですが、水晶製勾玉の完成品は発見されませんでした。完成品は使用する者の手に渡ったからです。
使用された水晶は、「草入り水晶」という特徴的な夾雑物が入っていて、原産地は山梨県の竹森である可能性が高いとのことです。良質な水晶の原産地は埼玉県内から見つかっていないので、そのことからも原産地は山梨県であると考えられるとのことです。
反町遺跡と同時期以前の水晶を加工した遺跡は、水晶が産出する丹後半島に近い弥生時代の京都府奈具岡遺跡があり、反町遺跡ともう一つの水晶勾玉製作跡のある前原遺跡に来た製作者は、その周辺から来た可能性が高いとのこと。
残された遺物の観察によって、製作者はごく短期間の滞在で、ある程度完成品ができあがった時点で、未製品をすべて残して退去していたことがわかるようです。
要するに、まとめると、玉つくり工人には自由はなく、ヤマト政権が山梨から材料を支給し、連れてきた玉つくり工人にその材料で勾玉を作らせ、一定の期間の後に退去させたということのようです。
玉つくり工人は出雲と北陸に二極化していたと考えられます。ですから、前回、土器の出土状況から、反町遺跡には山陰や北陸からも人が来ていたという話題を書きましたが、その土器を持って来た人達の中に、玉つくり工人がいたのかもしれません。
この玉つくり遺跡から類推できるヤマト政権の国家戦略について、上野氏の発表・レジュメにまとめられていましたが、何となく私は腑に落ちない感じがしましたので、ここには特に紹介しません。
どうして反町遺跡で水晶勾玉が製作されたのか、については、みんなそれぞれで考えてみましょう。反町遺跡の性格や立地についてもっと知る必要があるでしょうか。
ホールの外には、反町遺跡で発掘された水晶の他、土器などが展示してありました。
現在の私自身の興味は、「水晶の勾玉」にあるわけではないのですが、玉つくり全般と、現在の埼玉・群馬県のあたりが古墳時代にはヤマト政権のもとでどのような位置づけにあったのかについては興味があります。
群馬県も埼玉県も、特に群馬県には、結構大きい古墳がたくさんあるんですよね。それがどういう意味なのかは、私も深く考えたり調べたりしてこなかったので、まだまだこれからだなという感じです。
水晶の玉といえば、出雲も有名です。正倉院文書の中に、『出雲国計会帳』という、奈良の政府に提出された文書が残っていて、そこに、出雲から 「進上水精玉壹佰伍拾顆事」、つまり、水晶の玉を150個進上したことなどが記されています。天平5年(733年)ですので奈良時代のことです。
古墳はもう造られなくなり、勾玉の副葬品がいらなくなった時代にも、出雲では水晶の玉が作られ続けていたのです。
私はまだ出雲の玉造温泉にも行ったことがなく、その周辺の玉造り遺跡にも行ったことがないので、早めに行っておきたいと思っています。
ほるたま考古学セミナーからの記事は以上でおしまいとします。
では、今日はこのへんで。よいゴールデンウィークを。私は今日は昼間外出、夜はこれから大学のレポート書きかな、というところです。
できれば、ここにアップが遅れているいくつかの記事をゴールデンウィーク中に書き上げたいです。
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埼玉・反町遺跡は、日本で一番古い水晶勾玉製作地(古墳時代としては?かな やや説明が不足していると思いました)なのだそうです。古墳時代前期のことです。
住居跡で水晶製の遺物が大量に発見されたのですが、水晶製勾玉の完成品は発見されませんでした。完成品は使用する者の手に渡ったからです。
使用された水晶は、「草入り水晶」という特徴的な夾雑物が入っていて、原産地は山梨県の竹森である可能性が高いとのことです。良質な水晶の原産地は埼玉県内から見つかっていないので、そのことからも原産地は山梨県であると考えられるとのことです。
反町遺跡と同時期以前の水晶を加工した遺跡は、水晶が産出する丹後半島に近い弥生時代の京都府奈具岡遺跡があり、反町遺跡ともう一つの水晶勾玉製作跡のある前原遺跡に来た製作者は、その周辺から来た可能性が高いとのこと。
残された遺物の観察によって、製作者はごく短期間の滞在で、ある程度完成品ができあがった時点で、未製品をすべて残して退去していたことがわかるようです。
要するに、まとめると、玉つくり工人には自由はなく、ヤマト政権が山梨から材料を支給し、連れてきた玉つくり工人にその材料で勾玉を作らせ、一定の期間の後に退去させたということのようです。
玉つくり工人は出雲と北陸に二極化していたと考えられます。ですから、前回、土器の出土状況から、反町遺跡には山陰や北陸からも人が来ていたという話題を書きましたが、その土器を持って来た人達の中に、玉つくり工人がいたのかもしれません。
この玉つくり遺跡から類推できるヤマト政権の国家戦略について、上野氏の発表・レジュメにまとめられていましたが、何となく私は腑に落ちない感じがしましたので、ここには特に紹介しません。
どうして反町遺跡で水晶勾玉が製作されたのか、については、みんなそれぞれで考えてみましょう。反町遺跡の性格や立地についてもっと知る必要があるでしょうか。
ホールの外には、反町遺跡で発掘された水晶の他、土器などが展示してありました。
現在の私自身の興味は、「水晶の勾玉」にあるわけではないのですが、玉つくり全般と、現在の埼玉・群馬県のあたりが古墳時代にはヤマト政権のもとでどのような位置づけにあったのかについては興味があります。
群馬県も埼玉県も、特に群馬県には、結構大きい古墳がたくさんあるんですよね。それがどういう意味なのかは、私も深く考えたり調べたりしてこなかったので、まだまだこれからだなという感じです。
水晶の玉といえば、出雲も有名です。正倉院文書の中に、『出雲国計会帳』という、奈良の政府に提出された文書が残っていて、そこに、出雲から 「進上水精玉壹佰伍拾顆事」、つまり、水晶の玉を150個進上したことなどが記されています。天平5年(733年)ですので奈良時代のことです。
古墳はもう造られなくなり、勾玉の副葬品がいらなくなった時代にも、出雲では水晶の玉が作られ続けていたのです。
私はまだ出雲の玉造温泉にも行ったことがなく、その周辺の玉造り遺跡にも行ったことがないので、早めに行っておきたいと思っています。
ほるたま考古学セミナーからの記事は以上でおしまいとします。
では、今日はこのへんで。よいゴールデンウィークを。私は今日は昼間外出、夜はこれから大学のレポート書きかな、というところです。
できれば、ここにアップが遅れているいくつかの記事をゴールデンウィーク中に書き上げたいです。
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