この記事では、旧妻沼町東部にある西城城跡について書きたいと思います。
調査日は2019.01.26です。
西城城跡は福川の南岸にあり、東城、日向城に近接しており、当地が、当時としては得意な軍事的要衝であったことを
伺わせます。
わたしはかつて、高校生のころ、西城城跡の発掘現場を見学に行ったことがありました。
それは、以前記事としてアップした通りです。
今回はそれ以来の訪問となります。
現在は、水田の中に城址碑があると聞いております。
そこで、主に城址碑を見に・・・・遺構はあまり期待せずに見に行きました。
当日は天候が悪く、寒風が吹きすさんでおりました。
もう、こんな天気です。風も冷たい・・。
城址碑の近くには、集落がありそこは周囲より小高くなっております。
その下のかつては低湿地であった水田地帯の中に、城址碑があります。
西城城跡は水田地帯の中に盛り上がった桑畑であったということです。今は大半があれ地になっています。
周囲は水田整備事業にかかって区画がきちんとしています。
城址碑周辺は、下の写真のようになっており、水田化されなかったんですね。
つまり、ここが遺構であるといえば以降になるわけですね。
近接する土地は、周囲より高くなっております。
遺構に相当する微高地は堀で囲まれており、空堀遺構の一部と思われます。
城跡内には神社があります。
猿田彦大神とあります。神社の中には石の祠が祀られており、城跡付近にあった石祠を祀ったのでしょう。
猿田彦は道祖神として祀られることも多く、また庚申信仰にも深く関係します。
石の祠の前には、三猿のレリーフがあり庚申祭関係のものでしょう。西城城との関係は微妙だと考えられます。
もう少し、城跡周辺の水堀遺構を確認します。
西城城跡の周辺には、要害となる大きな沼地があったそうですが、耕地整理の過程で面影をなくしたといいます。
空模様はいよいよすさまじくなってきました。
西城城跡の南東100mほど離れた場所に調整池という形で、沼の痕跡が残っていました。
耕地整理は常湛水の湿田を乾田化する目的で行いますが、その場合、有力な方法は、明渠、暗渠などによって、
排水し排水路に落とすことです。
この調整池端には、なぜか稲荷社がありました。
かつてはこの空っぽになって調整池も住民が魚類を得るための重要な場所だったのかもしれません。
調査日は2019.01.26です。
西城城跡は福川の南岸にあり、東城、日向城に近接しており、当地が、当時としては得意な軍事的要衝であったことを
伺わせます。
わたしはかつて、高校生のころ、西城城跡の発掘現場を見学に行ったことがありました。
それは、以前記事としてアップした通りです。
今回はそれ以来の訪問となります。
現在は、水田の中に城址碑があると聞いております。
そこで、主に城址碑を見に・・・・遺構はあまり期待せずに見に行きました。
当日は天候が悪く、寒風が吹きすさんでおりました。
もう、こんな天気です。風も冷たい・・。
城址碑の近くには、集落がありそこは周囲より小高くなっております。
その下のかつては低湿地であった水田地帯の中に、城址碑があります。
西城城跡は水田地帯の中に盛り上がった桑畑であったということです。今は大半があれ地になっています。
周囲は水田整備事業にかかって区画がきちんとしています。
城址碑周辺は、下の写真のようになっており、水田化されなかったんですね。
つまり、ここが遺構であるといえば以降になるわけですね。
近接する土地は、周囲より高くなっております。
遺構に相当する微高地は堀で囲まれており、空堀遺構の一部と思われます。
城跡内には神社があります。
猿田彦大神とあります。神社の中には石の祠が祀られており、城跡付近にあった石祠を祀ったのでしょう。
猿田彦は道祖神として祀られることも多く、また庚申信仰にも深く関係します。
石の祠の前には、三猿のレリーフがあり庚申祭関係のものでしょう。西城城との関係は微妙だと考えられます。
もう少し、城跡周辺の水堀遺構を確認します。
西城城跡の周辺には、要害となる大きな沼地があったそうですが、耕地整理の過程で面影をなくしたといいます。
空模様はいよいよすさまじくなってきました。
西城城跡の南東100mほど離れた場所に調整池という形で、沼の痕跡が残っていました。
耕地整理は常湛水の湿田を乾田化する目的で行いますが、その場合、有力な方法は、明渠、暗渠などによって、
排水し排水路に落とすことです。
この調整池端には、なぜか稲荷社がありました。
かつてはこの空っぽになって調整池も住民が魚類を得るための重要な場所だったのかもしれません。
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