本日は、中条堤(熊谷市)についてご紹介したいと思います。
訪問日は、2019.01.29です。
中条堤は、中条氏館跡常光院の北、自動車で3分ほどのところにあります。
中条堤は、既に古墳時代からその原型がつくられたといわれ、築堤には秦氏一族が
技術者として動員されたようです。妻沼地域は秦氏一族に源流をもつ人たちが多く、小さな田舎町ですが、
学問好きや技術者が多い土地柄です。私も秦氏一族の出なので、まあ、ご先祖様の遺跡ということになります。
鎌倉期、室町期にかけて整備が進み、さらに江戸期になると忍藩一帯を洪水から守るために
維持管理がされましたが、守るのはあくまで堤内地(川の無い方)で、堤外地(川のある方)は
惨憺たる目にあったそうです。
この堤防は、政府からも忘れ去られ、戦後に再発見されたそうで、なんだか不思議な堤防です。
堤防は緩やかに湾曲しています。
正直、私は中学生ころにはこの存在を知っておりました。
再発見もその前後だそうで、私が中学生のころには砂利道でしたね。
この日はものすごい寒風が吹きすさんでおり、ちょっと丹念に見て回る気になれないほどすごかったです。
麦の収穫のころは、麦稈の野焼きの煙で前もみえないほどになっていたのですが、
あの頃が何だか懐かしいですね。
訪問日は、2019.01.29です。
中条堤は、中条氏館跡常光院の北、自動車で3分ほどのところにあります。
中条堤は、既に古墳時代からその原型がつくられたといわれ、築堤には秦氏一族が
技術者として動員されたようです。妻沼地域は秦氏一族に源流をもつ人たちが多く、小さな田舎町ですが、
学問好きや技術者が多い土地柄です。私も秦氏一族の出なので、まあ、ご先祖様の遺跡ということになります。
鎌倉期、室町期にかけて整備が進み、さらに江戸期になると忍藩一帯を洪水から守るために
維持管理がされましたが、守るのはあくまで堤内地(川の無い方)で、堤外地(川のある方)は
惨憺たる目にあったそうです。
この堤防は、政府からも忘れ去られ、戦後に再発見されたそうで、なんだか不思議な堤防です。
堤防は緩やかに湾曲しています。
正直、私は中学生ころにはこの存在を知っておりました。
再発見もその前後だそうで、私が中学生のころには砂利道でしたね。
この日はものすごい寒風が吹きすさんでおり、ちょっと丹念に見て回る気になれないほどすごかったです。
麦の収穫のころは、麦稈の野焼きの煙で前もみえないほどになっていたのですが、
あの頃が何だか懐かしいですね。
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