本日は、村岡河原古戦場について書きたいと思います。
村岡河原古戦場は熊谷市の荒川大橋上流(西側)の北岸、野球グラウンドがある地域です。
熊谷市の荒川南岸には村岡五郎平良文の領地があったといわれています。
現在、茶臼塚と呼ばれる古墳跡が残っており、その近くの高雲寺にかけて
村岡館跡があったといわれています。高雲寺の西側にごく小さい古墳と思われる塚が
あることから村岡館も、熊谷によく見られる古墳を利用した館跡だったとことが推測されます。
目立った遺構はありませんが、古墳を手掛かりに当時の姿を把握していくのは方法論としては
無駄ではないと思われます。
さて、この平良文が箕田郷(現、鴻巣市)に源充と合戦を行ったのが村岡河原だといわれています。
今昔物語「箕田源氏の源充と平良文合戦語第三」として有名ですが、これはどちらかというと
家来同士の口喧嘩から発生した私闘に近いもので、結局、弓比べをして和解しています。
2度目の合戦は、永享12年(1440)、結城方の一色伊代守と上杉性順・長尾景仲らの「五本榎の合戦」で、
それを裏書きするように、現在でも自生するエノキが非常に多く、タマムシ採りに行ったことがあります(笑)。
3度目の合戦は天文22年(1553)、北条氏方の千葉利胤と上杉謙信との合戦です。
平良文と源充との私闘はともかく、鎌倉公方(のちの古河公方)勢と関東管領勢の激突、
北条氏と関東侵攻を企てる上杉謙信との激突がここで行われていたのは、鎌倉に向かうためには
この村岡河原で渡河することが重要だったためでしょう。ここは中世世界にとって地政学的に重要な土地だったのです。
村岡河原直近の堤内にある南小学校まえには、村岡河原古戦場についての由来を書いた立札があります。
※ 「堤内」とは、河川堤防によって守られる地域、すなわち市街地、「堤外」とは河川側を示します。
治水政策において、水害から守られる人間を基準に作られた言葉です。
村岡河原古戦場は熊谷市の荒川大橋上流(西側)の北岸、野球グラウンドがある地域です。
熊谷市の荒川南岸には村岡五郎平良文の領地があったといわれています。
現在、茶臼塚と呼ばれる古墳跡が残っており、その近くの高雲寺にかけて
村岡館跡があったといわれています。高雲寺の西側にごく小さい古墳と思われる塚が
あることから村岡館も、熊谷によく見られる古墳を利用した館跡だったとことが推測されます。
目立った遺構はありませんが、古墳を手掛かりに当時の姿を把握していくのは方法論としては
無駄ではないと思われます。
さて、この平良文が箕田郷(現、鴻巣市)に源充と合戦を行ったのが村岡河原だといわれています。
今昔物語「箕田源氏の源充と平良文合戦語第三」として有名ですが、これはどちらかというと
家来同士の口喧嘩から発生した私闘に近いもので、結局、弓比べをして和解しています。
2度目の合戦は、永享12年(1440)、結城方の一色伊代守と上杉性順・長尾景仲らの「五本榎の合戦」で、
それを裏書きするように、現在でも自生するエノキが非常に多く、タマムシ採りに行ったことがあります(笑)。
3度目の合戦は天文22年(1553)、北条氏方の千葉利胤と上杉謙信との合戦です。
平良文と源充との私闘はともかく、鎌倉公方(のちの古河公方)勢と関東管領勢の激突、
北条氏と関東侵攻を企てる上杉謙信との激突がここで行われていたのは、鎌倉に向かうためには
この村岡河原で渡河することが重要だったためでしょう。ここは中世世界にとって地政学的に重要な土地だったのです。
村岡河原直近の堤内にある南小学校まえには、村岡河原古戦場についての由来を書いた立札があります。
※ 「堤内」とは、河川堤防によって守られる地域、すなわち市街地、「堤外」とは河川側を示します。
治水政策において、水害から守られる人間を基準に作られた言葉です。
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